
徳川家臣・大名
徳川家康の重臣として西三河の旗頭を務め、家康領国の政務と家臣団統制の中心にあった。天正7年の松平信康自刃後から天正13年の出奔まで岡崎城代を務め、その間に家康と秀吉の関係調整に関わったとされるが、詳細は確定していない。天正13年11月、秀吉の臣下化を拒む家康の方針に反発し、妻子と信濃小笠原家の人質を伴って出奔した。1590年に秀吉から松本城主に配置され、康長とともに城郭整備を行ったが、死去年は資料によって1592年説と1593年説に分かれている。
出典 国立公文書館『石川数正の出奔』、松本城管理事務所『松本城の歴史』
1件
1585年
11月13日
石川数正が秀吉のもとへ出奔
徳川を離れ秀吉方についた岡崎城代家康の重臣で岡崎城代だった石川数正が、妻子と信濃小笠原家の人質を連れて出奔し秀吉方についた。徳川の軍制に通じた重臣の離反は痛手となり、家康は軍制を改めたと伝わる。出奔の動機は確定していない。
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