織田信長の嫡孫・岐阜城主
1580年〜1605年
織田信長の嫡孫で、織田信忠の長男。1582年の本能寺の変で祖父と父を同時に失い、三歳で清須会議により織田家の跡継ぎと決まった。叔父の織田信孝、次いで羽柴秀吉の後見下に置かれ、岐阜城主は池田氏・豊臣秀勝と交替したが、1592年に秀信として岐阜城へ入り、美濃国内最大の13万3千石と与力の小大名を与えられた。同年には鏡嶋の与左衛門へ湊新町の取り立てを命じており、清須会議で担がれた幼主という見方では捉えきれない領主としての実務を残している。1600年は西軍として木曽川を防衛線としたが、8月23日に岐阜城が落城して降伏・出家し、高野山へ送られて1605年に死去した。
出典 岐阜市「岐阜城の歴代城主:織田信孝・織田秀信」/岐阜市「史跡岐阜城跡整備基本計画」/岐阜市「史跡岐阜城跡保存活用計画」/岐阜県歴史資料館「織田秀信禁制 写」/江南市「織田秀信禁制」/文教大学教育学部・中村修也「清須会議の意味」/コトバンク「鏡嶋湊」
織田信忠
親
三法師
本人
3件
1582年
7月
三法師が織田家の後継者に決まる
織田家後継者清須会議で、織田信忠の幼い嫡男・三法師(後の織田秀信)が祖父・信長の後継者に選ばれた。信長の次男・信雄と三男・信孝による家督継承案は採用されなかった。
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