1582年:本能寺の変と天下争奪の始まり

1582年:本能寺の変と天下争奪の始まり

本能寺の変で信長が倒れ、秀吉が中国大返しで山崎の戦いに勝利。甲州征伐では武田氏が滅亡し、織田政権の領土は拡大するも、信長死後の後継争いが始まる。

年内の主な出来事

3月

徳川家康が駿河国を与えられる

武田氏滅亡後、徳川家康は織田信長から駿河一国を与えられ、従来の三河・遠江と合わせて三国を領有する大名となった。

白山麓一向一揆の壊滅

尾山御坊陥落後も抵抗を続けた白山麓の山内惣庄を、佐久間盛政が最終的に鎮圧し、約100年続いた加賀一向一揆が終わった。

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出典 白山市「史跡鳥越城跡附二曲城跡」

3月25日

高遠城落城

織田信忠軍が仁科盛信の守る高遠城を攻め落とし、武田勝頼は新府城を放棄して東へ退いた。

4月

備中高松城水攻め

羽柴秀吉が毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、水攻めを進めた。

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出典 岡山県「備中高松城跡」/岡山市「高松城跡附水攻築堤跡」/岡山市「宇喜多氏と高松城水攻め~八幡山陣跡~」

4月3日

柴田勝家らが魚津城を包囲

柴田勝家・前田利家・佐々成政ら織田方の北陸軍が、上杉方の重要拠点・魚津城を包囲した。攻城戦は約八十日に及んだ。

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出典 魚津市「魚津城と松倉城」/魚津市「魚津城の戦い」/魚津市「魚津の歴史と文化」

武田勝頼自害

新府城を放棄した武田勝頼が田野で自害し、甲斐武田氏が滅亡した。

6月

織田信孝が四国出陣を中止し山崎の戦いへ向かう

織田信孝は四国攻めのため大坂方面に集結していたが、本能寺の変で出陣を中止した。その後、羽柴秀吉軍に加わって山崎の戦いで明智光秀と戦った。

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出典 Wikipedia「山崎の戦い」/Wikipedia「本能寺の変」

兵粮攻めと水攻めの到達点

秀吉が鳥取城を兵粮攻め、備中高松城を堤防による水攻めで圧迫。本能寺の変で毛利氏と講和し撤兵する。

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6月21日

織田信忠が二条御所で自害

本能寺の変を知った織田信忠は妙覚寺から二条御所へ移って明智軍に抗戦したが、包囲を破れず自害した。信長と嫡男の同日死去により織田家の後継問題が生じた。

本能寺の変

明智光秀が京都・本能寺で織田信長を討つ。信長自刃。

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出典 Wikipedia「本能寺の変」/Wikipedia「本能寺」

徳川家康が堺で本能寺の変を知る

安土訪問後に上方を遊覧していた徳川家康は、滞在先の堺で信長・信忠父子の死を知り、少数の供回りとともに領国への帰還を急いだ。

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出典 Wikipedia「本能寺の変」/Wikipedia「本能寺」

6月22日

魚津城落城

柴田勝家・前田利家・佐々成政らの織田方連合軍が上杉方の魚津城を落とした。本能寺の変の報が届くと織田方は撤退した。

6月23日

清水宗治自刃と備中高松城開城

清水宗治が自刃し、羽柴方と毛利方の和睦が成立して備中高松城が開城した。

徳川家康が伊賀越えで岡崎へ帰還

徳川家康は甲賀・伊賀の人々や茶屋四郎次郎らの助力を得て伊賀経由の帰国路を進み、6月4日に岡崎城へ到着した。

6月25日

中国大返し

毛利方との講和後、羽柴秀吉軍は備中から姫路城を経て畿内へ急行し、明智光秀との決戦へ向かった。

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出典 大山崎町「秀吉の中国大返し」

7月

清須会議

清須城で織田家の後継と領地再配分が協議され、信長の嫡孫・三法師が後継者となった。織田信雄と信孝による家督継承は退けられ、羽柴秀吉の影響力が強まった。

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出典 清須市「清須の人物伝」/江南市「織田信雄禁制」/愛知県公文書館「愛知の歴史資料」/清須市「清洲城」/あいち歴史観光「愛知ゆかりの武将・姫『織田家』」/滋賀県「賤ヶ岳の戦いから小牧・長久手の戦いへ」/文教大学教育学部・中村修也「清須会議の意味」/大阪大学学術情報庫「豊臣政権形成過程」

三法師が織田家の後継者に決まる

清須会議で、織田信忠の幼い嫡男・三法師(後の織田秀信)が祖父・信長の後継者に選ばれた。信長の次男・信雄と三男・信孝による家督継承案は採用されなかった。

織田信孝が三法師の後見として岐阜城主となる

清須会議後、織田信孝は三法師の後見人として岐阜城主となった。信孝は三法師を岐阜城に置き、織田家中での立場を固めようとした。

織田信雄が尾張と清須城を継承

清須会議後、織田信長の次男・信雄は尾張を領して清須城主となった。信雄はその後、清須城と城下を大規模に整備していく。

徳川家康が甲斐へ進出

本能寺の変後に旧武田領が動揺すると、徳川家康は甲斐へ入国した。家康は新府周辺で後北条氏と対峙し、武田旧臣の取り込みを進めた。

7月2日

羽柴秀長が山崎の戦いで兄を補佐

羽柴秀長は兄・秀吉の軍に加わり、明智光秀を破った山崎の戦いで秀吉の天下取りを支える転機を迎えた。

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出典 Wikipedia「山崎の戦い」/Wikipedia「本能寺の変」

山崎の戦い

羽柴秀吉が山崎周辺で明智光秀を破った。光秀は勝龍寺城へ退いたのち夜陰に脱出し、坂本城を目指す途中で落命した。

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出典 Wikipedia「山崎の戦い」/Wikipedia「本能寺の変」

10月

徳川家康と後北条氏が和議

旧武田領をめぐる徳川・後北条両軍の対陣は、織田信雄・信孝兄弟の勧めもあって和議に至った。家康は甲斐と南信濃を確保し、三河・遠江・駿河を合わせた五国の大名へ成長した。

天正壬午の乱と和睦

旧武田領をめぐる徳川家康と後北条氏の争いが和睦で収束。家康は甲斐・信濃を加えた五か国を領有する大名へと成長した。

出典 山梨県「遺跡トピックスNo.547」/富士宮市「戦国時代の富士宮 第7回」

月日不詳
天正壬午の乱

本能寺の変後に空白となった旧武田領をめぐり、徳川氏と後北条氏を中心とする争いが甲斐・信濃・上野で展開した。