
本能寺の変で信長が倒れ、秀吉が中国大返しで山崎の戦いに勝利。甲州征伐では武田氏が滅亡し、織田政権の領土は拡大するも、信長死後の後継争いが始まる。
4月
羽柴秀吉が毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、水攻めを進めた。
この合戦を詳しく見る →出典 岡山県「備中高松城跡」/岡山市「高松城跡附水攻築堤跡」/岡山市「宇喜多氏と高松城水攻め~八幡山陣跡~」
4月3日
柴田勝家・前田利家・佐々成政ら織田方の北陸軍が、上杉方の重要拠点・魚津城を包囲した。攻城戦は約八十日に及んだ。
この合戦を詳しく見る →出典 魚津市「魚津城と松倉城」/魚津市「魚津城の戦い」/魚津市「魚津の歴史と文化」
6月
織田信孝は四国攻めのため大坂方面に集結していたが、本能寺の変で出陣を中止した。その後、羽柴秀吉軍に加わって山崎の戦いで明智光秀と戦った。
この合戦を詳しく見る →出典 Wikipedia「山崎の戦い」/Wikipedia「本能寺の変」
6月21日
安土訪問後に上方を遊覧していた徳川家康は、滞在先の堺で信長・信忠父子の死を知り、少数の供回りとともに領国への帰還を急いだ。
この合戦を詳しく見る →出典 Wikipedia「本能寺の変」/Wikipedia「本能寺」
7月
清須城で織田家の後継と領地再配分が協議され、信長の嫡孫・三法師が後継者となった。織田信雄と信孝による家督継承は退けられ、羽柴秀吉の影響力が強まった。
このできごとを詳しく見る →出典 清須市「清須の人物伝」/江南市「織田信雄禁制」/愛知県公文書館「愛知の歴史資料」/清須市「清洲城」/あいち歴史観光「愛知ゆかりの武将・姫『織田家』」/滋賀県「賤ヶ岳の戦いから小牧・長久手の戦いへ」/文教大学教育学部・中村修也「清須会議の意味」/大阪大学学術情報庫「豊臣政権形成過程」
清須会議で、織田信忠の幼い嫡男・三法師(後の織田秀信)が祖父・信長の後継者に選ばれた。信長の次男・信雄と三男・信孝による家督継承案は採用されなかった。
清須会議後、織田信孝は三法師の後見人として岐阜城主となった。信孝は三法師を岐阜城に置き、織田家中での立場を固めようとした。
7月2日
羽柴秀長は兄・秀吉の軍に加わり、明智光秀を破った山崎の戦いで秀吉の天下取りを支える転機を迎えた。
この合戦を詳しく見る →出典 Wikipedia「山崎の戦い」/Wikipedia「本能寺の変」
羽柴秀吉が山崎周辺で明智光秀を破った。光秀は勝龍寺城へ退いたのち夜陰に脱出し、坂本城を目指す途中で落命した。
この合戦を詳しく見る →出典 Wikipedia「山崎の戦い」/Wikipedia「本能寺の変」
10月
旧武田領をめぐる徳川家康と後北条氏の争いが和睦で収束。家康は甲斐・信濃を加えた五か国を領有する大名へと成長した。
出典 山梨県「遺跡トピックスNo.547」/富士宮市「戦国時代の富士宮 第7回」
本能寺の変後に空白となった旧武田領をめぐり、徳川氏と後北条氏を中心とする争いが甲斐・信濃・上野で展開した。