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織田信忠の家紋

織田家 嫡男

織田信忠

生年不詳〜1582年

織田信長の嫡男で、信長から家督を受けて軍事・政務を担った。1582年の甲信攻略では総司令として行動し、武田氏滅亡後の占領地の配分にも関わった。同年6月、本能寺の変と同時期に京都の二条御所で死亡した。信長と信忠が同時に失われたことで、信忠の嫡男である三法師の存在が織田家の継承問題の中心になった。

出典 岐阜市「岐阜城の歴代城主:織田信孝・織田秀信」/織田秀信(三法師)の継承と岐阜/江南市「織田信雄禁制」/岐阜市「史跡岐阜城跡整備基本計画」/岐阜市「史跡岐阜城跡保存活用計画」/岐阜県歴史資料館「織田秀信禁制 写」/江南市「織田秀信禁制」/文教大学教育学部・中村修也「清須会議の意味」/コトバンク「鏡嶋湊」

家系図

資料で確認できた関係だけを示す。一族の全員を網羅したものではない。

関連する出来事

6件

1575年

6月29日

長篠の戦い

織田方の将
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長篠城を囲んだ武田勝頼に対し、織田信長と徳川家康が設楽原で迎え撃った合戦。馬防柵と鉄砲を組み合わせた織田・徳川方の陣に武田軍は突き崩され、宿老級の武将を数多く失った。

1578年

7月

織田信忠が三木城包囲の付城を築く

織田軍
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織田信長の嫡男・信忠は三木合戦に出陣し、羽柴秀吉の本陣となる平井山ノ上付城などを築いて包囲網を強化した。

1581年

3月

織田信雄の伊賀再征

伊賀侵攻軍の援軍・織田方
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織田信雄が伊賀へ大軍を送り込み、地侍勢力を徹底的に制圧。伊賀は織田政権の直轄支配下に置かれる。

1582年

3月25日

高遠城落城

織田軍総大将
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織田信忠軍が仁科盛信の守る高遠城を攻め落とし、武田勝頼は新府城を放棄して東へ退いた。

6月21日

織田信忠が二条御所で自害

織田家嫡男
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本能寺の変を知った織田信忠は妙覚寺から二条御所へ移って明智軍に抗戦したが、包囲を破れず自害した。信長と嫡男の同日死去により織田家の後継問題が生じた。

7月

三法師が織田家の後継者に決まる

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清須会議で、織田信忠の幼い嫡男・三法師(後の織田秀信)が祖父・信長の後継者に選ばれた。信長の次男・信雄と三男・信孝による家督継承案は採用されなかった。

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