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小西行長の家紋

肥後宇土の領主・朝鮮出兵の第一軍

小西行長

堺の商家の出身で秀吉に仕え、肥後南半国の宇土を基盤に、朝鮮出兵では第一軍を率い、明・朝鮮との講和交渉にも関わった人物。瀬戸内から九州西岸に連なる海上交通・海民との関係、肥後国衆一揆後の宇土での城下・領国建設、そして戦争を継続・縮小・終結させるための交渉が、行長の仕事だった。外交と軍事は別の仕事ではなく、海を渡る軍勢・兵粮・情報を維持するために結び付いていた。自前の大水軍を養ったのではなく各地の水軍戦力をまとめる役だったと宇土市の講演記録は説明する。キリシタン大名という一面は重要だが、それを全行動の唯一の動機にはできない。

出典 宇土市「小西行長」/宇土市デジタルミュージアム「宇土城跡(城山)」/宇土市「よみがえる小西行長公」講演記録/大阪城天守閣「小西行長書状」/名古屋市博物館「慶長の朝鮮出兵」/国立歴史民俗博物館・荒木和憲「『壬辰戦争』の講和交渉」


関連する出来事

3件

1592年

3月

文禄の役の渡海開始

先鋒の渡海を指揮
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豊臣秀吉の命を受けた諸大名の軍勢が名護屋から朝鮮半島へ向けて順次出航した。

4月

秀吉の命で16万の日本軍が釜山へ渡り、わずか20日で漢城、2か月で平壌に達した。だが李舜臣の水軍に海路を断たれ、各地の義兵と明の援軍に押し返される。1593年に漢城を退いて南岸の倭城へ引き、講和交渉に入った。

1597年

7月

講和が破れて再び渡海した日本軍は、漆川梁で朝鮮水軍を破り南原城を落として全羅道を押さえた。だが稷山で北上を止められ、復帰した李舜臣に鳴梁で敗れて南岸の倭城に釘付けとなる。1598年8月の秀吉の死を受けて撤退し、11月の露梁海戦で7年の戦役が終わった。

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