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慶長の役

1597年7月〜1598年11月 · 朝鮮半島南部

講和が破れて再び渡海した日本軍は、漆川梁で朝鮮水軍を破り南原城を落として全羅道を押さえた。だが稷山で北上を止められ、復帰した李舜臣に鳴梁で敗れて南岸の倭城に釘付けとなる。1598年8月の秀吉の死を受けて撤退し、11月の露梁海戦で7年の戦役が終わった。

慶長の役 — 朝鮮半島南部

戦況年表

1 1597年7月16日

漆川梁の海戦

李舜臣に代わった元均の朝鮮水軍が夜襲を受けて壊滅した。朝鮮水軍がほぼ全滅した唯一の海戦で、日本軍は制海権を得て全羅道へ進める。

元均

夜襲を受け朝鮮水軍が壊滅する

豊臣秀吉

肥前名護屋から再出兵を命じる

出典3·確実度:高

2 1597年8月16日

南原城の戦い

宇喜多秀家・小西行長らが5万余で囲み、明・朝鮮の守兵を破って城を落とした。文禄の役では入れなかった全羅道が、ここで初めて日本軍の手に入る。

宇喜多秀家

南原城を囲んで落とす

小西行長

南原城を囲んで落とす

出典3·確実度:高

3 1597年9月7日

稷山の戦い

漢城を目指して北上した黒田長政らが明軍と衝突し、進撃はここで止まった。慶長の役で日本軍が最も北へ達した地点である。

黒田長政

稷山で明軍と衝突し北上が止まる

出典3·確実度:高

4 1597年9月16日

鳴梁の海戦

復帰した李舜臣がわずか13隻で、狭い水道の潮流を使って日本水軍を退けた。海路が再び断たれ、日本軍は南岸から動けなくなる。

李舜臣

13隻で潮流を使い日本水軍を退ける

出典3·確実度:高

5 1597年12月〜1598年1月

蔚山城の戦い

築城中の島山城で加藤清正が5万余の明・朝鮮軍に囲まれた。水も食料も尽きるなかで持ちこたえ、救援を得て包囲を解く。

加藤清正

築城中の蔚山城で包囲に耐える

出典3·確実度:高

6 1598年10月1日

泗川の戦い

島津義弘が寡兵で明・朝鮮の大軍を退けた。撤退を控えた日本軍にとって、南岸を保つうえで大きな勝利になる。

島津義弘

寡兵で明・朝鮮の大軍を退ける

出典3·確実度:高

7 1598年9月〜10月

順天城の戦い

最も西に置かれた順天倭城で、小西行長が明の劉綎と李舜臣の水陸からの攻めを受けた。城は落ちず、行長は撤退の交渉に入る。

小西行長

順天倭城で水陸からの攻めを受ける

劉綎

陸から順天倭城を攻める

李舜臣

海から順天倭城を攻める

出典3·確実度:高

8 1598年11月19日

露梁の海戦

撤退する日本水軍を明・朝鮮の連合水軍が追い、最後の大海戦となった。李舜臣はこの戦いで流れ弾に当たって戦死する。これをもって7年の戦役が終わった。

李舜臣

露梁で戦死する

陳璘

明の水軍を率いて追撃する

出典3·確実度:高

主な関係人物

豊臣氏

7名

豊臣秀吉

総大将

1598年8月に伏見城で没し、これを受けて撤退が決まった

出典3·確実度:高


宇喜多秀家

左軍の大将

南原城を攻め落とした

出典3·確実度:高


小西行長

左軍

南原城のあと順天倭城に在番した

出典3·確実度:高


加藤清正

右軍

蔚山倭城で五万余の包囲に耐えた

出典3·確実度:高


島津義弘

右軍

泗川倭城で明・朝鮮の大軍を退けた

出典3·確実度:高


黒田長政

右軍

稷山まで北上した

出典3·確実度:高


毛利秀元

右軍

蔚山の救援に加わった

出典3·確実度:高

朝鮮軍

3名

李舜臣

三道水軍統制使

鳴梁で復帰し、露梁海戦で戦死した

出典3·確実度:高


元均

三道水軍統制使

漆川梁で敗れ戦死した

出典3·確実度:高


権慄

都元帥

陸の朝鮮軍を統べた

出典3·確実度:高

明軍

3名

楊鎬

経理

蔚山城の包囲を指揮した

出典3·確実度:高


劉綎

提督

順天倭城を陸から攻めた

出典3·確実度:高


陳璘

水軍都督

李舜臣と組んで露梁で日本水軍を追った

出典3·確実度:高

データ上の注意

局面の座標は市郡の位置で、番地までは詰めていない。朝鮮半島の面は Natural Earth から起こした八道を使っている

参照した資料

  1. 九州国立博物館メールマガジン362号
  2. 長崎県「年表で学ぼう」
  3. ja.wikipedia.org「文禄・慶長の役」および各戦闘の記事

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1597年の勢力図を見る
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