EVENTS
合戦以外の大きなできごとを、経過と根拠をあわせてまとめた一覧です。日付は出典で確認できた範囲で示し、西暦に換算できないものは原資料の和暦のままにしています。
将軍足利義尚が六角高頼討伐のため近江へ出陣し、長享・延徳の乱が始まる。
陶晴賢の軍勢に追われた大内義隆が大寧寺で自害し、大内氏の政治体制が大きく変質した。
本願寺法主顕如は勅命による講和を受け入れて石山本願寺を退去し、織田信長と本願寺の約十年に及ぶ戦いが終結した。
播磨平定後、黒田孝高から姫路城を譲られた羽柴秀吉は城を改修し、但馬・因幡・備中へ進む中国攻めの本拠とした。
本能寺の変で織田信長が討たれた直後、備中国高松城を攻めていた羽柴秀吉が毛利氏との講和をまとめ、軍を東へ返した行軍。天正10年6月6日に中国街道を東進し、播磨国の姫路城へ戻った。ここでいう「中国」は日本の中国地方を指す。
本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が死去したあと、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四宿老が尾張国清洲城に集まり、織田家の後継と遺領配分を協議した会議。信長の嫡孫である三法師が跡目を継ぎ、信雄が尾張、信孝が美濃を領することとなった。
秀吉の命で16万の日本軍が釜山へ渡り、わずか20日で漢城、2か月で平壌に達した。だが李舜臣の水軍に海路を断たれ、各地の義兵と明の援軍に押し返される。1593年に漢城を退いて南岸の倭城へ引き、講和交渉に入った。
講和が破れて再び渡海した日本軍は、漆川梁で朝鮮水軍を破り南原城を落として全羅道を押さえた。だが稷山で北上を止められ、復帰した李舜臣に鳴梁で敗れて南岸の倭城に釘付けとなる。1598年8月の秀吉の死を受けて撤退し、11月の露梁海戦で7年の戦役が終わった。