実子・秀頼の誕生後、後継者だった甥の関白・豊臣秀次に謀反の疑いをかけた秀吉は、秀次を高野山に追放したうえで切腹を命じた。続いて秀次の妻子ら約40人が京都・三条河原で処刑され、豊臣政権は有力な後継候補を自ら失うとともに、大名たちに大きな衝撃と不信を残した。
7月
関白職を剥奪され高野山へ追放された豊臣秀次が、豊臣秀吉の命により切腹した。
7月28日
豊臣秀次の失脚後、豊臣秀吉が秀次の居所だった聚楽第の破却を命じた。
8月
聚楽第が徹底的に取り壊され、建物や部材の一部は伏見城などへ移された。
豊臣秀次が高野山で切腹した後、その妻子・縁者が京都の三条河原で処刑された。のちに処刑地跡へ瑞泉寺が建てられ、秀次一族の菩提が弔われた。
出典 京都国立博物館「豊臣秀次と瑞泉寺」/京都市「都市史22 高瀬川」