狩野光信「豊臣秀吉像」
豊臣政権 初代関白
1537年〜1598年
織田信長の家臣として近江・中国方面で城下統治と兵站・攻城の経験を積み、三木・鳥取・高松での攻城戦を経て頭角を現した。本能寺の変後は毛利氏と講和して山崎の戦いで明智光秀を破り、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると大坂城を築いて政権の拠点とした。関白に就任して惣無事令・検地・刀狩を進め、四国・九州・小田原を平定して全国統一を達成した。晩年は甥・秀次の粛清や朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で政権を不安定化させ、1598年、幼い秀頼の行く末を五大老・五奉行に託して死去した。
出典 九州国立博物館メールマガジン/長崎県「年表で学ぼう」/熊本市「加藤清正」資料
69件
1537年
豊臣秀吉が誕生
誕生後に天下統一を成し遂げる豊臣秀吉が尾張国愛知郡中村に生まれたとされる。生年には1536年説もある。
1560年
1577年
羽柴秀長が竹田城代となる
関係人物羽柴秀吉の但馬攻めに従った弟・秀長が竹田城の城代となり、兄弟による中国・山陰攻略の一翼を担った。
1578年
1580年
羽柴秀吉が姫路城を中国攻めの拠点とする
中国攻め総大将播磨平定後、黒田孝高から姫路城を譲られた羽柴秀吉は城を改修し、但馬・因幡・備中へ進む中国攻めの本拠とした。
1581年
1582年
6月
織田信孝が四国出陣を中止し山崎の戦いへ向かう
参戦・関係織田信孝は四国攻めのため大坂方面に集結していたが、本能寺の変で出陣を中止した。その後、羽柴秀吉軍に加わって山崎の戦いで明智光秀と戦った。
10月
信長の葬儀が大徳寺で営まれる
信長の葬儀を主催した羽柴秀吉が織田信長の葬儀を京都の大徳寺で営み、信長の子で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝とともに主催した。清須会議後の主導権を示す場となった。
1583年
1584年
1585年
1586年
豊臣秀吉が太政大臣に就任
当事者豊臣秀吉が太政大臣に任じられ、朝廷の最高官職を得た。
1587年
1588年
1589年
山中城の増築
攻略を見越した増築の対抗者後北条氏が豊臣秀吉との対決に備え、山中城の岱崎出丸を城域に取り込むなど防備を強化した。
1590年
奥州仕置
奥州仕置を主導豊臣秀吉が会津へ入り、奥羽諸大名の所領を裁定した。伊達政宗は会津を失い、蒲生氏郷が会津を与えられた。
1591年
1592年
4月
文禄の役
総大将秀吉の命で16万の日本軍が釜山へ渡り、わずか20日で漢城、2か月で平壌に達した。だが李舜臣の水軍に海路を断たれ、各地の義兵と明の援軍に押し返される。1593年に漢城を退いて南岸の倭城へ引き、講和交渉に入った。
1593年
1594年
伏見港と太閤堤の整備
整備主導伏見城造営に伴い伏見港が開かれ、宇治川沿いの太閤堤など水陸交通を結ぶ大規模な土木工事が進められた。
1595年
1596年
サン=フェリペ号漂着
積荷没収・取調べを命じた政権者スペイン船サン=フェリペ号が土佐国浦戸へ漂着し、積荷没収と乗員の取り調べがキリシタン弾圧強化の契機となった。
1597年
7月
慶長の役
総大将講和が破れて再び渡海した日本軍は、漆川梁で朝鮮水軍を破り南原城を落として全羅道を押さえた。だが稷山で北上を止められ、復帰した李舜臣に鳴梁で敗れて南岸の倭城に釘付けとなる。1598年8月の秀吉の死を受けて撤退し、11月の露梁海戦で7年の戦役が終わった。
慶長の役の渡海開始
出兵主導豊臣政権が朝鮮半島への再出兵を命じ、肥前名護屋を国内拠点として諸大名の軍勢が再び渡海した。
1598年
朝鮮半島からの撤兵
参戦・関係豊臣秀吉の死後、諸大名の軍勢が朝鮮半島から撤退し、肥前名護屋を拠点とした出兵が終結した。
1599年
徳川家康が伏見城へ入城
死後の政権体制豊臣秀吉の死後、五大老の徳川家康が伏見城へ入り、豊臣政権の政務を担う拠点とした。
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