BATTLES
局面ごとに地図が動く合戦ページの一覧です。日付は西暦(1582年以前はユリウス暦)で表記しています。
畠山義就が上御霊社の畠山政長を攻撃し、応仁の乱の前哨戦となる。
東西両軍が激突して相国寺が焼亡したが、決着には至らなかった。
東軍の骨皮道賢が西軍に討たれ、伏見稲荷社が焼失する。
伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越御所を攻め、足利茶々丸を追放して伊豆へ進出した。
山内上杉顕定方と扇谷上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞方が武蔵の立河原で激突し、扇谷方が勝利した。顕定はのちに越後勢の援軍を得て反撃したため、長享の乱はこの戦いだけでは終結しなかった。
伊勢宗瑞方が拠点とした権現山を山内・扇谷両上杉氏の軍が攻撃し、激戦となった。相模・武蔵をめぐる伊勢氏と上杉氏の抗争が本格化した。
細川高国・大内義興方が8月24日に船岡山で細川澄元方を破った。将軍・足利義尹は9月1日に京都へ戻り、政権を回復した。
毛利・吉川方は有田中井手で武田元繁方を破り、元繁を討ち取った。安芸の勢力関係を変える毛利氏初期の重要な勝利となった。
北条氏綱は1月13日に高輪原で扇谷上杉朝興を破り、太田資高の離反を得て江戸城を攻略した。江戸城は北条氏の武蔵進出の拠点となった。
足利義明・里見義堯らの房総軍が国府台で北条氏綱軍と戦い、北条軍が勝利して義明は戦死した。
尼子晴久が吉田郡山城を攻めたが、毛利元就は大内氏の援軍を得て防衛に成功した。
北条氏康の援軍が河越城を包囲する上杉・古河公方連合軍を破り、扇谷上杉朝定は討死した。
武田晴信は村上義清との上田原の戦いで敗れ、板垣信方・甘利虎泰ら重臣を失った。
武田晴信は村上義清方の砥石城を攻めたが攻略できず、大きな損害を受けて退いた。
武田晴信と長尾景虎が北信濃の支配をめぐって川中島で対峙した。
武田晴信と長尾景虎が犀川をはさんで200日余り対陣した戦い。旭山城が落ちないため決戦にならず、今川義元の仲介で和睦した。
大内氏の実権を握った陶晴賢に対し、毛利元就が厳島へ渡海して塔の岡の本陣を突き、陶軍を破った合戦。兵力で劣る側が、島という狭い戦場を選んで戦った。
美濃の国主を退いて隠居していた斎藤道三と、家督を継いだ嫡男・義龍が長良川で戦い、道三が討たれた。娘婿の織田信長の援軍は間に合わなかった。
織田信長と、弟の織田信行を擁立した柴田勝家・林秀貞らが争った、織田弾正忠家の家督をめぐる戦い。信長は名塚に砦を築いて迎え撃ち、稲生原で勝った。
武田方が葛山城を落としたのを受けて長尾景虎が北信濃へ出兵したが、武田方は決戦を避け、決着はつかなかった。
厳島の勝利のあと、毛利元就が周防・長門へ攻め入り、山口を落として大内義長を長門へ追った。義長は長福寺で自刃し、大内氏は滅びた。
清洲城の織田信長と、尾張北部を治めていた岩倉城の織田氏が浮野で戦い、信長が勝った。翌年の岩倉城落城につながる。
近江へ逃れていた将軍・足利義輝が京の奪還を目指し、東山の城をめぐって三好長慶方と戦った。合戦には敗れたが、同じ年の和睦で義輝は5年ぶりに京へ戻った。
今川義元の尾張侵攻に対し、織田信長が桶狭間・田楽狭間周辺で今川本隊を攻撃し、義元が戦死した合戦。鳴海城・大高城と、それを封鎖する丸根・鷲津・丹下・善照寺・中島の砦をめぐる一連の攻防として起きた。
六角方に攻められた肥田城の救援に出た浅井長政が、宇曽川をはさんで六角義賢の軍を破った合戦。浅井氏が六角氏から自立する転機になった。
関東の諸将を集めた長尾景虎が小田原城を包囲したが落とせず、鎌倉で関東管領職を継いで上杉政虎と改め、兵を退いた。
千曲川と犀川にはさまれた川中島一帯で、武田信玄と上杉政虎が正面から衝突した戦い。双方が大きな損害を出し、決着はつかなかった。
関門海峡を見下ろす門司城をめぐり、大友軍が城を囲み、渡海した毛利軍が守り切った戦い。海峡をはさむ勢力の境が、この攻防で決まった。
金ヶ崎で浅井長政に背かれた織田信長が、徳川家康とともに近江へ攻め込み、浅井・朝倉軍と姉川で戦った合戦。織田・徳川方が勝ったが、浅井氏を滅ぼすまでには至らなかった。
摂津国石山本願寺の顕如が織田信長に反旗を翻し挙兵。以後、周辺一向宗勢力を巻き込む長期戦に発展。
摂津国で織田方が三好三人衆・本願寺方の拠点を攻撃。浅井・朝倉軍の南下により兵を返す事態となる。
武田軍が遠江二俣城を攻略し、徳川方の防衛線を切り崩した。家康は浜松城を拠点に持久と反撃の機会をうかがう状況に追い込まれた。
西上の途にあった武田信玄が遠江へ攻め入り、浜松城を素通りして北へ向かった。誘い出された徳川家康は三方ヶ原の台地で追撃を受け、生涯でも指折りの大敗を喫した。
将軍足利義昭がなおも諸大名に反信長挙兵を呼びかける中、織田信長は京都近郊の槇島城を攻撃。義昭は敗れて降伏し、京都から追放された。
織田軍が越前へ退く朝倉軍を追撃し大勝。朝倉氏の軍事的基盤を決定的に崩した。
長篠城を囲んだ武田勝頼に対し、織田信長と徳川家康が設楽原で迎え撃った合戦。馬防柵と鉄砲を組み合わせた織田・徳川方の陣に武田軍は突き崩され、宿老級の武将を数多く失った。
朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。
三木城主・別所長治が織田方から離反して毛利方に呼応し、羽柴秀吉による三木城攻囲が始まった。
信長と石山本願寺の講和後、柴田勝家配下の佐久間盛政が加賀一向一揆の本拠・尾山御坊を攻略した。約100年続いた加賀一向一揆の中枢が失われ、加賀国は事実上織田方の支配下に入った。
尾山御坊陥落後も抵抗を続けた白山麓の一向宗門徒組織・山内惣庄を、佐久間盛政が鳥越城・二曲城で最終的に鎮圧した。一揆勢300人余りが処刑され、約100年続いた加賀一向一揆はここに終わった。
羽柴秀吉が毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、水攻めを進めた。
柴田勝家・前田利家・佐々成政ら織田方の北陸軍が、上杉方の重要拠点・魚津城を包囲した。攻城戦は約八十日に及んだ。
明智光秀が主君の織田信長を京の本能寺に襲い、信長と嫡男の信忠を死に追いやった政変。天下統一を目前にした織田政権は一夜で崩れた。
本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。
織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康が尾張で争った戦役。小牧山と楽田で長い対陣が続くなか、三河へ迂回した羽柴勢が長久手で徳川勢に討たれた。戦術では家康が勝ち、政略では秀吉が信雄と単独講和して目的を遂げた。
羽柴秀吉が長宗我部元親の四国支配に対して三方面から征討軍を送り、元親を降伏させた戦役。元親は土佐一国へ退き、四国は豊臣政権の国分に組み込まれた。
伊達政宗軍と、佐竹義重を中心に蘆名氏などが加わった反伊達連合軍が人取橋周辺で戦った合戦。伊達軍は苦戦したが、連合軍は撤退した。
大友氏の要請と島津氏への停戦命令を背景に、豊臣秀吉が大軍を九州へ進め、島津義久を降伏させた戦役。
伊達政宗と、佐竹・蘆名方が郡山周辺で対陣・交戦した一連の戦闘。長期対陣の後、講和が成立した。
伊達政宗が摺上原で蘆名義広方を破り、その後黒川城へ入って会津を掌握した。
豊臣軍が小田原への進路を守る後北条氏の山中城を攻撃し、半日で落城させた。
豊臣秀吉が小田原へ着陣し、諸将の軍勢で後北条氏の小田原城を包囲した。
奥羽仕置で改易された葛西・大崎氏の旧家臣らが、新領主木村氏に対して蜂起した一揆。最終的に佐沼城で鎮圧された。
南部氏一族の九戸政実が奥羽仕置後の体制に抗して蜂起し、豊臣政権の再仕置軍に九戸城を包囲されて降伏した戦い。
徳川家康の会津出陣後、西軍が鳥居元忠らの守る伏見城を包囲し、関ヶ原戦役の最初の本格的攻城戦が始まった。
直江兼続率いる上杉軍が最上領へ侵攻し、長谷堂城を攻めたが攻略できず、関ヶ原敗報を受けて撤退した戦役。
徳川秀忠軍が真田昌幸・信繁の守る上田城を攻めたが攻略できず、中山道軍の西上が遅れた。
美濃関ヶ原で東西両軍が激突。徳川家康率いる東軍が大勝。