
織田家の重臣・畿内/若狭
織田信長の重臣で、1568年の上洛以後、畿内・若狭・伊勢での戦争、城の確保、織田一門の補佐、地域勢力との取次を担った。若狭や伊勢を一貫して直轄したのではなく、年ごとの軍勢催促、城の守備、一門との連署や取次として関わった点は分けて見る必要がある。1582年の本能寺の変後は清須会議に加わり、三法師を中心とする織田家の再編に関わった。清須会議で「四宿老」の一人として語られるが、これを信長期から固定した官職や常設の合議体とみなすことはできない。
出典 小牧市「小牧・長久手の合戦」/岐阜市「岐阜城の歴代城主:織田信孝・織田秀信」/国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記」検索
丹羽長秀
本人
丹羽長重
子
4件
1575年
8月
越前一向一揆の鎮圧
木ノ芽峠口攻撃朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。
1582年
7月
清洲会議
会議に臨んだ四宿老の一人本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が死去したあと、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四宿老が尾張国清洲城に集まり、織田家の後継と遺領配分を協議した会議。信長の嫡孫である三法師が跡目を継ぎ、信雄が尾張、信孝が美濃を領することとなった。
7月2日
山崎の戦い
秀吉方の将本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。
1583年
6月11日
賤ヶ岳の戦い
秀吉方の将織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
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