INTERACTIVE BATTLE
天正3年8月 · 越前国木ノ芽峠・杉津口・府中(現在の福井県南越前町・越前市周辺)
朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。
越前では朝倉氏滅亡(天正元年/1573年)後、本願寺から派遣された坊官・大坊主による一向一揆支配に国人・百姓の不満が募り、天正3年ごろから内部分裂が進んでいた。信長は同年5月の長篠の戦いで武田勝頼を破って余裕が生じたことを機に、この内部分裂を好機として越前攻略を決断した。
信長は天正3年8月14日に敦賀へ入り、翌15日、木ノ芽峠口(丹羽長秀・滝川一益・蜂屋頼隆)と杉津口(羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家)の二手から総攻撃を開始した。もと一揆方だった堀江景忠の内応もあり一揆方の防衛線は崩れ、8月15・16日だけで府中町で1500人が討たれた。一揆の惣大将・下間頼照は坂井郡豊原寺へ退いたが、10月に坂井郡下野村で討たれ、一向一揆による越前支配は約1年半で終わった。

信長は越前の国割を決めた。柴田勝家は8郡と北庄築城を与えられ、前田利家・佐々成政・不破光治は府中辺2郡を均分で与えられて「府中三人衆」となり、勝家の与力・目付として越前支配を監視する役を得た。
論点
前田利家が8月15日の総攻撃そのものに加わった部隊として名指しされる公的資料は確認できていない。ただし小丸城跡出土の文字瓦には利家が一揆勢約1000人を処刑した旨が刻まれており、府中三人衆として鎮圧後の仕置に深く関与したことがうかがえる。瓦文の年代は天正3年説・8年説があり未確定。
出典235·確実度:高
鎮圧後の9月2日、信長は越前の国割を定めた。柴田勝家は越前8郡と北庄築城を与えられ北陸方面軍の中心となり、前田利家・佐々成政・不破光治は府中辺2郡を均分で与えられ「府中三人衆」として勝家の与力・目付となった。信長方の記録では、この総攻撃と残党狩りで数千〜数万人規模の殺害が伝わる(信長は8月21日までに6600人斬首と書状に記し、『信長公記』は8月15〜19日だけで1万2250人、諸将分を含め3〜4万人とする)。前田利家が天正3年8月の総攻撃そのものに加わった部隊として名指しされる公的資料は確認できないが、府中三人衆としての立場から鎮圧後の府中周辺の仕置に深く関与したことは複数の公的資料で裏付けられる。
8名
鎮圧後、府中三人衆として府中辺2郡を領有
8月15日の総攻撃そのものに加わった部隊として名指しされる公的資料はないが、9月2日に佐々成政・不破光治とともに府中辺2郡を与えられ、柴田勝家の与力・目付となった。小丸城跡出土の文字瓦には、利家が一揆勢約1000人を処刑した旨が刻まれている(年代は天正3年説・8年説があり未確定)。
出典23·確実度:中
鎮圧後、府中三人衆として府中辺2郡を領有
前田利家・佐々成政とともに府中辺2郡を均分で与えられた。
出典2·確実度:中
データ上の注意
殺害された人数は信長方の記録(信長書状で6600人、『信長公記』で1万2250〜3〜4万人)に幅があり、単一の確定数値としては断定していない。小丸城跡出土の文字瓦には前田利家が一揆勢約1000人を処刑した旨が刻まれているが、瓦文の年代(天正3年か天正8年か)は学術的に未確定のため、本文では年表項目として採用せず、注記に留める。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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