INTERACTIVE BATTLE

山崎の戦い

1582年7月2日 · 山城国山崎・天王山周辺

本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。

背景

本能寺の変で織田信長が討たれたとき、秀吉は備中高松城を水攻めで囲んでいた。毛利氏と急ぎ講和を結び、山陽道をひた走って畿内へ戻る。光秀は近江を押さえたものの、細川藤孝や筒井順慶の支持を得られず、味方は思うように集まらなかった。

結末

明智軍は崩れ、光秀は勝竜寺城へ退いたのち坂本を目指す途中、小栗栖で落命したと伝わる。坂本城も落ち、明智一族は滅びた。

山崎の戦い — 山城国山崎・天王山周辺

戦況年表

1 6月22日

秀吉が備中高松で信長の死を知る

高松城を水攻めで囲んでいた陣中に、京の変事が届いた。秀吉は信長の死を伏せたまま毛利氏との講和をまとめ、東へ向かう構えを固める。

羽柴秀吉

高松城の陣で変を知る

黒田孝高

毛利氏との講和をまとめる

出典13·確実度:中

2 6月26日

姫路城まで引き返す

備中を発った秀吉軍は山陽道を駆け、姫路へ入った。世に中国大返しと呼ばれる強行軍で、光秀が畿内を固める前に戻ることを狙った。

論点

行程の日数と一日あたりの距離には史料により幅があり、後世の誇張を含むとみる指摘もある。

羽柴秀吉

中国大返しで姫路へ

出典13·確実度:論争あり

3 6月30日

尼崎に達し畿内の諸将と合流する

秀吉は尼崎まで進み、摂津の諸将を糾合した。織田信孝と丹羽長秀の軍も加わり、明智方を数で上回る態勢が整う。

丹羽長秀

尼崎で秀吉と合流

織田信孝

名目上の主将として加わる

出典13·確実度:中

4 7月1日

山崎で両軍が対峙する

摂津と山城を結ぶ隘路の山崎で両軍が向かい合った。天王山と淀川に挟まれた狭い地形が、兵の多い側にも展開の余地を与えない。

明智光秀

山崎で秀吉軍と対峙

出典13·確実度:中

5 7月2日

天王山と円明寺川で戦端が開く

天王山の斜面と円明寺川ぞいで戦いが始まった。中川清秀・高山右近ら先鋒が押し、池田恒興の部隊が川を渡って明智方の側面を突く。

論点

天王山の争奪が勝敗を決めたとする語りは後世に整えられたもので、山上の攻防を限定的にみる見解もある。

中川清秀

先鋒として天王山方面を押す

高山右近

先鋒として前線に立つ

池田恒興

円明寺川を渡り側面を突く

出典13·確実度:論争あり

6 7月2日

明智軍が崩れ光秀が勝竜寺城へ退く

支えきれなくなった明智軍は総崩れとなり、光秀は勝竜寺城へ逃れた。夜のうちに城を出て坂本を目指したが、小栗栖で落命したと伝わる。

論点

最期の場所と状況は伝承の色が濃く、日時にも異説がある。

明智光秀

勝竜寺城へ退き小栗栖で落命

斎藤利三

明智軍を支えきれず敗走

出典13·確実度:伝承

7 7月4日

坂本城が落ち明智一族が滅びる

明智秀満は坂本城に拠ったが支えきれず、一族とともに果てた。光秀の政権は本能寺の変から数えて10日あまりで終わる。

明智秀満

坂本城で一族とともに果てる

出典13·確実度:中

歴史的な位置づけ

信長の後継をめぐる主導権が秀吉に移る転機となった。天王山の名は、勝敗を分ける局面を指す言葉として今も使われる。

主な関係人物

羽柴氏

5名

羽柴秀吉

秀吉方総大将

備中から引き返し、11日で光秀を討った。

出典1·確実度:高


豊臣秀長

秀吉方の将

天王山方面を担った。のちの豊臣秀長。

出典1·確実度:中


黒田孝高

秀吉方の参謀

毛利氏との講和と大返しの段取りに関わったと伝わる。

出典1·確実度:中


中川清秀

秀吉方の先鋒

摂津衆として前線に立った。

出典1·確実度:中


高山右近

秀吉方の先鋒

摂津衆として前線に立った。

出典1·確実度:中

池田氏

1名

池田恒興

秀吉方の将

円明寺川を渡って明智方の側面を突いたと伝わる。

出典1·確実度:中

丹羽氏

1名

丹羽長秀

秀吉方の将

織田信孝とともに合流し、秀吉方の中核を成した。

出典1·確実度:中

織田氏

1名

織田信孝

織田家の名分

信長の子として軍の名目上の主将に立てられた。

出典1·確実度:中

明智氏

3名

明智光秀

明智方総大将

敗れて勝竜寺城へ退き、坂本へ向かう途中で落命したと伝わる。

出典1·確実度:高


斎藤利三

明智方の重臣

明智軍の中核を率いたが敗れ、のちに捕らえられた。

出典1·確実度:中


明智秀満

明智方の将

坂本城に拠って最期まで抗い、一族とともに果てた。

出典1·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典側は旧暦の日付を用いており、本ページの7月2日は旧暦の天正10年6月13日にあたる。地図上の点は史跡および行軍を理解するための概略位置。

参照した資料

  1. Wikipedia「山崎の戦い」
  2. Wikipedia「本能寺の変」
  3. 城郭マスタ(shiro.geojson)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1582年の勢力図を見る
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