INTERACTIVE BATTLE
1582年7月2日 · 山城国山崎・天王山周辺
本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。
本能寺の変で織田信長が討たれたとき、秀吉は備中高松城を水攻めで囲んでいた。毛利氏と急ぎ講和を結び、山陽道をひた走って畿内へ戻る。光秀は近江を押さえたものの、細川藤孝や筒井順慶の支持を得られず、味方は思うように集まらなかった。
明智軍は崩れ、光秀は勝竜寺城へ退いたのち坂本を目指す途中、小栗栖で落命したと伝わる。坂本城も落ち、明智一族は滅びた。

備中を発った秀吉軍は山陽道を駆け、姫路へ入った。世に中国大返しと呼ばれる強行軍で、光秀が畿内を固める前に戻ることを狙った。
論点
行程の日数と一日あたりの距離には史料により幅があり、後世の誇張を含むとみる指摘もある。
中国大返しで姫路へ
出典13·確実度:論争あり
支えきれなくなった明智軍は総崩れとなり、光秀は勝竜寺城へ逃れた。夜のうちに城を出て坂本を目指したが、小栗栖で落命したと伝わる。
論点
最期の場所と状況は伝承の色が濃く、日時にも異説がある。
勝竜寺城へ退き小栗栖で落命
明智軍を支えきれず敗走
出典13·確実度:伝承
明智秀満は坂本城に拠ったが支えきれず、一族とともに果てた。光秀の政権は本能寺の変から数えて10日あまりで終わる。
坂本城で一族とともに果てる
出典13·確実度:中
信長の後継をめぐる主導権が秀吉に移る転機となった。天王山の名は、勝敗を分ける局面を指す言葉として今も使われる。
データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典側は旧暦の日付を用いており、本ページの7月2日は旧暦の天正10年6月13日にあたる。地図上の点は史跡および行軍を理解するための概略位置。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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