INTERACTIVE BATTLE
1583年6月11日 · 近江国賤ヶ岳・余呉湖周辺
織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
本能寺の変ののち、清洲会議を経ても信長の後継と遺領の配分をめぐる対立は解けなかった。秀吉は近江を押さえ、勝家は越前から南下して余呉湖周辺で対陣した。織田信孝と滝川一益が勝家に呼応し、秀吉は美濃にも兵を割いていた。
柴田勝家は北ノ庄城へ退いて自害し、お市の方もこれに殉じた。織田信孝と滝川一益も屈し、秀吉は信長の後継としての立場を固めた。

織田信孝が岐阜で兵を挙げる
佐久間盛政が大岩山砦を落とす
秀吉が大垣から木之本へ引き返す
美濃にいた秀吉は報せを受けると即座に反転し、その日のうちに戦場へ戻った。世に美濃大返しと呼ばれる強行軍で、盛政は退く間を失う。
論点
行軍の距離と所要時間には史料により幅があり、後世の誇張を含むとみる指摘もある。
大垣から木之本へ引き返す
出典1234·確実度:論争あり
丹羽長秀が湖上から海津へ入る
前田利家が戦線を離れる
賤ヶ岳で勝家軍が崩れる
勝家が北ノ庄城に囲まれる
柴田勝家が自害する
信長の遺産をめぐる争いに決着をつけ、秀吉が天下人へ進む転機となった。加藤清正ら「賤ヶ岳の七本槍」の武名もこの戦いから生まれた。
データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典側は旧暦の日付を用いており、本ページの6月11日は旧暦の天正11年4月21日にあたる。地図上の点は史跡・伝承地および行軍を理解するための概略位置。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

広告