INTERACTIVE BATTLE

野良田の戦い

1560年9月 · 近江国野良田(現在の彦根市野良田町・肥田町)

六角方に攻められた肥田城の救援に出た浅井長政が、宇曽川をはさんで六角義賢の軍を破った合戦。浅井氏が六角氏から自立する転機になった。

背景

浅井氏は久政の代に南近江の六角氏へ従っていた。滋賀県教育委員会は、その子の長政が不満を持つ家臣たちと共謀して久政を隠居させたと記す。六角方の高野瀬氏が拠る肥田城は前年に水攻めを受けており、両者の境目が争点になっていた。

結末

六角軍は敗れ、浅井長政は北近江(江北)を自らの領国として支配するようになった。六角氏は3年後の観音寺騒動で家中が乱れる。

野良田の戦い — 近江国野良田(現在の彦根市野良田町・肥田町)

戦況年表

1 1560年夏

六角軍が肥田城へ攻め寄せる

浅井方へ転じた高野瀬氏の肥田城へ、六角方が攻め寄せた。前年には城の周囲に土塁を築いて水攻めが試みられている。

六角義賢

肥田城を攻める

高野瀬秀隆

浅井方へ救援を求める

出典23·確実度:中

2 1560年9月

長政が小谷城から南下する

肥田城の救援を受けた浅井長政は、小谷城から兵を南へ進めた。両軍は宇曽川をはさんで向かい合った。

浅井長政

小谷城から出陣する

出典24·確実度:中

3 1560年9月

野良田で浅井軍が勝つ

兵力で勝る六角軍が初めは押したが、浅井軍の反撃で形勢が入れ替わり、六角軍は敗れた。

論点

両軍の兵数と死者数は軍記により大きく異なり、定まった数字はない。

浅井長政

六角軍を破る

出典15·確実度:中

4 戦後

浅井氏が江北を自らの領国とする

滋賀県教育委員会は、この戦いで六角氏を破った長政が、これ以後自立した領主権力として江北を支配するようになったと記す。

浅井長政

江北を支配する

浅井久政

隠居させられる

出典14·確実度:高

歴史的な位置づけ

滋賀県教育委員会は、この戦いで六角氏を破った長政が「これ以後自立した領主権力として江北を支配する」と記す。桶狭間と同じ年に、近江でも勢力の均衡が動いた。

主な関係人物

浅井氏

3名

浅井長政

浅井軍総大将

小谷城から出陣して肥田城を救い、六角軍を破って江北の支配を確かなものにした。

出典1·確実度:高


浅井久政

浅井氏の前当主

六角氏に従っていた長政の父。家臣に押される形で隠居した。

出典1·確実度:中


高野瀬秀隆

肥田城主

六角方から浅井方へ転じ、援軍を求めてこの戦いの発端となった。

出典2·確実度:中

六角氏

2名

六角義賢

六角軍総大将

南近江の大名。兵力で勝りながら敗れ、以後は家中の動揺を抱える。

出典1·確実度:高


蒲生定秀

六角方の将

六角軍の先鋒を務めたと伝わる。

出典2·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦の永禄3年8月中旬とし、日を特定できる史料が乏しいため、表示は月までにとどめる。兵数と死者数は軍記由来で幅があるため本文には書かない。肥田城跡は大半の遺構が残らず、地図の点は肥田町・野良田町の代表位置として置く。

参照した資料

  1. 滋賀県教育委員会「近江戦国探訪ガイドブック2 信長の城と戦国近江」
  2. Wikipedia「野良田の戦い」
  3. 地理院地図 住所検索(滋賀県彦根市肥田町)
  4. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  5. 地理院地図 住所検索(滋賀県彦根市野良田町)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1560年の勢力図を見る
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