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長尾景虎の小田原城包囲

1561年4月 · 相模国小田原城(現在の神奈川県小田原市)

関東の諸将を集めた長尾景虎が小田原城を包囲したが落とせず、鎌倉で関東管領職を継いで上杉政虎と改め、兵を退いた。

背景

後北条氏に追われた関東管領・上杉憲政は越後の長尾景虎を頼った。景虎は憲政を奉じて前年8月に越山し、上野の沼田・岩下・厩橋を押さえて武蔵へ南下した。

結末

城は落ちず、上杉軍は包囲を解いた。景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で上杉憲政から上杉の名字と関東管領職を譲られ、上杉政虎と改めた。

長尾景虎の小田原城包囲 — 相模国小田原城(現在の神奈川県小田原市)

戦況年表

1 1560年秋〜冬

景虎が越山し上野を押さえる

上杉憲政を奉じた景虎は三国峠を越えて上野へ入り、沼田・岩下・厩橋を押さえた。厩橋は遠征の兵站の拠点となった。

長尾景虎

三国峠を越える

上杉憲政

景虎に奉じられる

出典34·確実度:中

2 1561年初春

武蔵を南下し関東の諸将が集まる

上杉軍は松山城を経て南下した。上野・武蔵を中心に関東各地の諸将が加わったが、その対応は勢力によって一様ではなく、下総の千葉氏など北条方にとどまった勢力もあった。

太田資正

反北条の連合に加わる

里見義堯

反北条の連合に加わる

出典34·確実度:中

3 1561年4月

小田原城を包囲する

上杉軍は小田原城を包囲した。小田原城公式の年表は、この年に景虎が小田原城の蓮池を攻め、城下に放火したと記す。城は落ちなかった。

論点

包囲の期間と参加した兵の数は資料ごとに差が大きく、上杉方の軍記は数を大きく書く。

長尾景虎

小田原城を囲む

北条氏康

城に籠って守る

出典124·確実度:高

4 1561年4月末〜5月

鶴岡八幡宮で関東管領職を継ぐ

包囲を解いた景虎は鎌倉へ移り、鶴岡八幡宮の社前で上杉憲政から上杉の名字と関東管領職を譲られ、上杉政虎と改めた。

上杉憲政

名跡と職を譲る

長尾景虎

上杉政虎と改める

出典15·確実度:高

歴史的な位置づけ

関東管領の権威は得たが、参陣した関東諸将の結束の弱さに加え、小田原城の守りと補給線の長さも重なり、遠征は実効支配へ転じなかった。以後、上杉方の越山は毎年のように繰り返される。

主な関係人物

上杉氏

4名

長尾景虎

上杉軍総大将

上杉憲政を奉じて越山し、小田原城を包囲した。遠征中に上杉政虎と改め、のちの上杉謙信。

出典1·確実度:高


上杉憲政

前の関東管領

後北条氏に追われて越後へ逃れ、鶴岡八幡宮で名跡と職を譲った。

出典1·確実度:高


太田資正

武蔵の国衆

反北条の利害で上杉軍に加わった関東の諸将のひとり。

出典3·確実度:中


里見義堯

安房の大名

後北条氏と対立していた安房の大名で、この遠征では房総から上杉方として北条氏を牽制したとされる。

出典3·確実度:中

後北条氏

2名

北条氏康

後北条氏の当主

小田原城に籠り、支城網と補給線の長さを利用して遠征を耐えた。

出典1·確実度:高


北条氏政

後北条氏の四代

父の氏康とともに小田原城を守った。小田原市はこの包囲を氏政の時代の出来事として記す。

出典1·確実度:高

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、永禄4年3月の包囲が西暦の1561年4月にあたる。包囲の期間と規模、城下での行動は資料ごとに差が大きいため、数値は本文に書かない。

参照した資料

  1. 小田原市「四代氏政の時代」
  2. 小田原城「歴史年表」
  3. Wikipedia「小田原城の戦い (1560年)」
  4. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  5. 地理院地図 住所検索(神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1561年の勢力図を見る
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