INTERACTIVE BATTLE
1560年6月12日 · 尾張国桶狭間・田楽狭間周辺
今川義元の尾張侵攻に対し、織田信長が桶狭間・田楽狭間周辺で今川本隊を攻撃し、義元が戦死した合戦。鳴海城・大高城と、それを封鎖する丸根・鷲津・丹下・善照寺・中島の砦をめぐる一連の攻防として起きた。
1550年代、鳴海城・大高城・沓掛城は今川方に属し、織田方は大高城に対して丸根・鷲津、鳴海城に対して丹下・善照寺・中島の砦を置いて対抗した。1560年6月、義元は尾張へ軍を進め、今川方は大高城への補給と織田方砦の排除を進めた。義元の最終目的を京都への上洛と断定せず、尾張南東部の城砦・兵糧路をめぐる軍事行動を確認できる背景として扱う。
今川義元が戦死し、今川軍の尾張侵攻は頓挫した。松平元康は大高城から大樹寺を経て岡崎城へ帰還したが、直後に織田方へ転じたわけではなく、翌1561年に信長と和解・同盟した。今川氏真の政権も合戦直後に消滅したわけではない。

今川軍が駿府を発つ
今川義元は駿河・遠江・三河の軍勢を率いて尾張へ向かった。
論点
自治体解説が示す日程には後世の編纂史料を含むため、各日の滞在を同時代史料だけで確定したものとはしない。
本隊を率いて駿府を発つ
出典25·確実度:中
義元本隊が沓掛城に入る
松平元康が大高城へ兵糧を入れる
丸根砦が攻め落とされる
松平元康らの今川勢が丸根砦を攻め、守将の佐久間盛重らが戦死して砦は陥落したと伝えられる。
論点
兵数と鉄砲使用の細部は後世資料を含み、定数として扱わない。
丸根砦を守る
丸根砦を攻める
出典7·確実度:中
鷲津砦が攻め落とされる
朝比奈泰朝らの今川勢が鷲津砦を攻め、飯尾定宗ら守備側の多くが戦死して砦は陥落したと伝えられる。
論点
攻守双方の人数と守将の構成は資料によって異なる。
鷲津砦を守る
鷲津砦を守る
出典8·確実度:中
織田信長が清洲城を出陣する
砦への攻撃を知った信長は清洲城を出陣し、熱田を経て尾張南東部の前線へ向かった。
論点
敦盛、出陣時の人数、熱田での祈願は『信長公記』系の著名な叙述であり、出陣そのものと分けて扱う。
清洲城を出陣
出典25·確実度:中
信長が善照寺砦へ進む
前線へ進んだ信長は善照寺砦に入り、集まった軍勢を整えたと伝えられる。
論点
集結兵数は資料によって異なるため確定値としない。
出典9·確実度:中
善照寺砦から中島砦へ前進する
今川本隊へ攻撃をかける
今川義元が戦死し今川軍が撤退する
乱戦で総大将の義元が討たれた。今川軍は総大将を失い、尾張から撤退へ転じた。
論点
義元を討った個人、最期の斬り合い、討死地点の一点特定は史料叙述・伝承として分ける。兵数・死傷者数にも定説はない。
討死
鳴海城に在城
出典23·確実度:高
元康が大高城を離れ岡崎方面へ退く
信長が尾張南東部の軍事的主導権を取り戻し、元康が岡崎を拠点に松平家臣団を再編する契機となった。一方、兵数、義元の侵攻目的、信長の攻撃経路、急雨の役割、義元本陣と討死地点には史料・研究上の議論がある。
8名
織田方前衛
今川軍先陣への陽動に関わったとする地域資料がある。戦闘参加の細部は史料により異なる。
出典11·確実度:論争あり
丸根砦の守将
丸根砦に拠って今川方の攻撃を受け、砦とともに討たれたと伝わる。
出典7·確実度:中
鷲津砦の守将
鷲津砦に配された織田方の将。『信長公記』は「織田玄蕃」と記す。
出典48·確実度:中
鷲津砦の守将
子の尚清とともに鷲津砦に配されたと伝わる。『信長公記』は「飯尾近江守父子」と記す。
出典8·確実度:中
中島砦の守将
信長が桶狭間へ向かう前に前進した中島砦を守ったと伝わる。
出典14·確実度:中
丹下砦の守将
鳴海城を押さえる丹下砦に配された織田方の将のひとり。
出典15·確実度:中
データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。6月12日は旧暦の永禄3年5月19日にあたる。地図上の線と点は、史跡・伝承地および行軍を理解するための概略表示であり、唯一の攻撃経路、戦場範囲、義元本陣・討死地点を確定するものではない。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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