作者不詳「加藤清正像」
肥後北半国の領主・朝鮮戦線
豊臣秀吉の近習・武将から肥後北半国の領主となり、検地・城下整備と朝鮮出兵の動員を同時に負った人物。肥後は国衆一揆の後始末を抱えた地域であり、清正の統治は豊臣家の九州前線基地化、村落からの兵粮・労働力の動員、朝鮮の前線での築城と籠城が重なるものだった。河川改修や新田開発を清正の功績とする「土木の神」の伝承は多いが、一次資料は少ないと熊本市の研究資料も明記している。小西行長との漢城一番乗り争いも、確かな史料がなく後世の創作の可能性が指摘されており、別軍として進軍したことまでが確認できる事実である。
出典 熊本市「加藤清正の実像(9)肥後入国」/熊本県立図書館「肥後国検地諸帳」/熊本市熊本城調査研究センター「清正の土木」/熊本市「加藤清正の実像(13)朝鮮出兵」/熊本市「加藤清正の実像(16)蔚山城の籠城戦」/熊本市「加藤清正の実像(17)秀吉の死と朝鮮からの撤退」/行橋市デジタルアーカイブ『行橋市史』
5件
1583年
6月11日
賤ヶ岳の戦い
秀吉方の若武者織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
1592年
4月
文禄の役
二番隊秀吉の命で16万の日本軍が釜山へ渡り、わずか20日で漢城、2か月で平壌に達した。だが李舜臣の水軍に海路を断たれ、各地の義兵と明の援軍に押し返される。1593年に漢城を退いて南岸の倭城へ引き、講和交渉に入った。
1597年
7月
慶長の役
右軍講和が破れて再び渡海した日本軍は、漆川梁で朝鮮水軍を破り南原城を落として全羅道を押さえた。だが稷山で北上を止められ、復帰した李舜臣に鳴梁で敗れて南岸の倭城に釘付けとなる。1598年8月の秀吉の死を受けて撤退し、11月の露梁海戦で7年の戦役が終わった。
1607年
熊本城完成
築城主・熊本藩主加藤清正が築城を進めた熊本城が完成し、城下町と白川の河川改修を含む肥後支配の拠点が整えられた。
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