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大友宗麟の家紋

大友氏 二十一代当主

大友宗麟

1530年〜1587年

大友義鎮(のち宗麟)。豊後の大友氏当主。1550年の二階崩れの変後に家督を継ぎ、肥後・豊前・筑前へ勢力を広げた。1559年には豊前・筑前・筑後守護職と九州探題職を得て、北部九州支配の正統性を強めた。府内でイエズス会の布教、育児院・病院の活動、南蛮貿易を保護し、のちに洗礼を受けてフランシスコと称した。耳川の戦いで島津氏に大敗した後は勢力を失い、島津軍の豊後侵攻を受けて豊臣秀吉に救援を求めた。九州平定中の1587年に死去した。

出典 大分市「史跡大友氏遺跡整備基本計画(第1期)」/大分県立図書館「豊前国宇佐郡がいつ大友氏の支配下になったか」/大分市歴史資料館「大友宗麟」


関連する出来事

5件

1560年

9月

九州情勢緊迫

関係人物
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大友義鎮(宗麟)と島津義久の間で領土争いが激化の兆し。

9月

肥後・日向国境紛争

大友方当主
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大友方の国衆と島津方の国衆が国境付近で小競り合いを繰り返す。

1561年

11月

門司城の戦い

大友方の当主として攻撃を命じる
この合戦を詳しく見る →

大友軍が関門海峡を見下ろす門司城を囲んだが、小早川隆景が渡海して城を守り、大友軍は退いた。

1571年

島津・大友対立の継続

関係人物
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九州では島津義久と大友義鎮(宗麟)の緊張関係が続き、日向・肥後方面の国衆を巻き込んだ勢力争いが続いた。

1573年

島津氏と大友氏の緊張継続

関係人物
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九州では島津義久が南九州で地歩を固め、大友宗麟との対立構造が続く。全面衝突前夜の均衡状態が保たれた。

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