INTERACTIVE BATTLE
1561年11月〜12月 · 豊前国門司城(現在の北九州市門司区)
関門海峡を見下ろす門司城をめぐり、大友軍が城を囲み、渡海した毛利軍が守り切った戦い。海峡をはさむ勢力の境が、この攻防で決まった。
大内氏の滅亡で、関門海峡をはさむ勢力の境が動いた。毛利氏は門司城を九州への足がかりとし、大友氏は豊前・筑前の確保を目指した。北九州市は、室町時代末に門司半島が大友氏・大内氏・毛利氏などの拠点とされたと記す。
大友軍は包囲を解いて退き、門司城は毛利氏の手に残った。毛利氏の勢力は筑前・豊前の国衆へ及び、大友氏との抗争はその後も続いた。

大友軍が門司城を囲む
大友宗麟のもとで戸次鑑連らが兵を出し、門司城を囲んだ。城は関門海峡を見下ろす古城山にあり、海と陸の道を同時に押さえる位置にある。
門司城を囲む
出典134·確実度:中
小早川隆景が渡海して入城する
大友軍が包囲を解いて退く
毛利方の別働隊が大友軍の側背を突き、大友軍は包囲を解いて退いた。門司城は毛利氏の手に残った。
論点
博多に停泊していたポルトガル船が砲撃に加わったという記録があるが、勝敗を左右する規模ではなかったとみられている。
豊前方面の作戦を担う
門司を取れずに退く
出典134·確実度:中
門司をめぐる攻防は1558年から数年にわたって繰り返され、1561年の戦いが最大規模となった。関門海峡の押さえがそのまま西国の海の道の押さえだったことが、この執着の理由である。
データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、小早川隆景の渡海(10月10日)と大友軍の撤退(11月5日)は西暦の1561年11月から12月にあたる。換算根拠が資料ごとに揃わないため、表示は月までにとどめる。門司城跡は現在の和布刈公園(古城山)にある。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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