1598年:秀吉の死去と朝鮮からの撤退

1598年:秀吉の死去と朝鮮からの撤退

8月、秀吉が伏見城で病没した。死の直前、秀吉は五大老に朝鮮出兵中の全軍撤退を遺言し、遺命を受けて日本軍は撤収を開始した。11月の露梁海戦では明・朝鮮水軍と激しく戦い名将・李舜臣を討ち取ったが、日本軍もこの海戦を最後に朝鮮半島から完全に撤退し、7年に及んだ戦役は幕を閉じた。

年内の主な出来事

3月15日

醍醐の花見

豊臣秀吉が醍醐寺で秀頼・北政所・淀殿らを伴う大規模な花見の宴を催した。

3月18日

釜山浦城援軍の輪番命令

豊臣秀吉が朝鮮の釜山浦城への援軍を四国大名衆へ輪番で命じる朱印状を発した。

5月3日

四奉行の加藤嘉明加増連署状

前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家の四奉行が、朝鮮での戦功を理由に加藤嘉明を10万石へ加増する旨の連署状を発した。

8月18日

豊臣秀吉死去

豊臣秀吉が伏見城で死去し、幼い秀頼を支える五大老・五奉行体制の均衡が大きく揺らぎ始めた。

9月3日

五大老五奉行の連署起請文

豊臣秀吉死後、幼い秀頼を支える五大老と五奉行が合議の誓約を記した起請文を作成した。

月日不詳
朝鮮半島からの撤兵

豊臣秀吉の死後、諸大名の軍勢が朝鮮半島から撤退し、肥前名護屋を拠点とした出兵が終結した。