INTERACTIVE BATTLE

厳島の戦い

1555年10月16日 · 厳島(宮尾城周辺)

大内氏の実権を握った陶晴賢に対し、毛利元就が厳島へ渡海して塔の岡の本陣を突き、陶軍を破った合戦。兵力で劣る側が、島という狭い戦場を選んで戦った。

背景

1551年の大寧寺の変で大内義隆を自刃させた陶晴賢に対し、義隆と結んでいた毛利元就が兵を向けた。元就は兵力の差を島で相殺するため、宮島の北に宮尾城を築いて陶軍を誘い込んだ。

結末

陶晴賢は敗走ののち自害し、陶方の弘中隆包も自害した。大内氏は周防・長門を守る力を失い、翌年から毛利氏の防長経略が始まる。

厳島の戦い — 厳島(宮尾城周辺)

戦況年表

1 1555年9月

陶軍が厳島へ渡り塔の岡に本陣を置く

陶晴賢の軍は宮島へ上陸し、まず勝山城に本陣を置いたのち、宮尾城を見下ろす塔の岡へ本陣を移して城を攻めた。宮尾城は落ちなかった。

陶晴賢

塔の岡に本陣を置く

出典14·確実度:中

2 10月16日未明

元就が地御前から包ヶ浦へ渡海する

暴風と暗闇にまぎれて、元就は対岸の地御前から兵を船に乗せ、島の東側の包ヶ浦へ渡った。

毛利元就

地御前から渡海する

小早川隆景

水軍で渡海を支える

出典156·確実度:中

3 10月16日朝

博打尾から陶本陣へ攻め下る

包ヶ浦に上がった毛利軍は博打尾の尾根を越え、塔の岡の陶本陣めがけて攻め下った。宮尾城の毛利方も城から打って出て、陶軍は挟まれる形になった。

論点

宮尾城側からの呼応や、村上水軍が渡海にどこまで関わったかは、資料によって書きぶりが異なる。

毛利元就

博打尾から攻め下る

毛利隆元

本隊に加わる

出典123·確実度:中

4 10月16日

陶晴賢が敗走し自害する

陶軍は混乱して敗走した。弘中隆包は敗走ののち自害し、晴賢も島内で自害した。

陶晴賢

敗走ののち自害する

弘中隆包

敗走ののち自害する

出典123·確実度:高

歴史的な位置づけ

安芸の国人だった毛利氏が中国地方の大勢力へ転じる起点となった。渡海の経路、上陸地点、双方の兵数には史料・研究上の議論がある。

主な関係人物

毛利氏

4名

毛利元就

毛利軍総大将

地御前から包ヶ浦へ渡海し、博打尾から陶本陣を突いた本隊を率いた。

出典1·確実度:中


毛利隆元

毛利本家の当主

元就の嫡男として毛利本家を継いでおり、本隊に従ったと伝わる。

出典1·確実度:中


小早川隆景

毛利方の水軍を率いる

小早川氏を継ぎ、瀬戸内の船を動かして渡海を支えたと伝わる。

出典1·確実度:中


吉川元春

毛利方の将

吉川氏を継いで山陰方面を担った。厳島では本隊に従ったと伝わる。

出典1·確実度:中

大内氏

2名

陶晴賢

大内方総大将

宮島へ上陸し塔の岡に本陣を置いて宮尾城を攻めた。敗走ののち自害した。

出典1·確実度:高


弘中隆包

大内方の将

陶方の将として島で戦い、敗走ののち自害したと宮島観光協会は記す。

出典1·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、10月16日は弘治元年10月1日にあたる。兵数は伝承を含む数値のため本文には書かない。地図の点は史跡・伝承地の概略位置で、戦場の範囲を確定するものではない。

参照した資料

  1. 宮島観光協会「厳島合戦」
  2. 広島県「戦国大名とひろしま~毛利元就~」
  3. 廿日市市「宮島物知り図鑑:宮島ゆかりの人々」
  4. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  5. 宮島観光協会「宮島の歴史」
  6. 地理院地図 住所検索(広島県廿日市市地御前)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1555年の勢力図を見る
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