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長良川の戦い

1556年5月28日 · 美濃国長良川(現在の岐阜市)

美濃の国主を退いて隠居していた斎藤道三と、家督を継いだ嫡男・義龍が長良川で戦い、道三が討たれた。娘婿の織田信長の援軍は間に合わなかった。

背景

道三は1554年に家督を義龍へ譲り、鷺山城へ隠居した。道三が義龍の弟を重んじたことから両者は不和となり、1555年に義龍が弟たちを殺して決裂が決定的になった。

結末

道三は討たれ、義龍が美濃を掌握した。信長は追撃を受けながら尾張へ引き上げ、以後10年にわたって美濃を攻めることになる。

長良川の戦い — 美濃国長良川(現在の岐阜市)

戦況年表

1 1554年〜1555年

道三が隠居し、父子が決裂する

道三は1554年に家督を義龍へ譲って鷺山城へ隠居した。しかし道三が義龍の弟を重んじたため不和となり、1555年に義龍が弟たちを殺した。

斎藤道三

鷺山城へ隠居する

斎藤義龍

家督を継ぐ

出典34·確実度:高

2 1556年5月28日

長良川で両軍が激突する

義龍が兵を出し、道三も長良川へ出た。兵力の差は大きく、道三方は押し切られた。

斎藤義龍

大軍を率いて攻める

出典12·確実度:高

3 1556年5月28日

斎藤道三が討たれる

道三は敗れて討たれた。娘婿の織田信長は援軍を出したが決着に間に合わず、追撃を受けながら尾張へ引き上げた。

論点

道三の首をめぐる個々の武士の逸話は軍記に由来し、伝承として扱う。

斎藤道三

敗れて討たれる

織田信長

援軍が間に合わない

出典125·確実度:高

4 戦後

常在寺が斎藤家の菩提寺となる

道三の遺体はいったん崇福寺の西南に葬られ、のちに常在寺の住職が現在の道三塚へ移した。常在寺は斎藤家の菩提寺として親子3代を祀り、道三と義龍の肖像画を伝える。

斎藤義龍

美濃を掌握する

出典126·確実度:高

歴史的な位置づけ

美濃の国主が入れ替わり、尾張との関係が同盟から敵対へ転じた。道三の遺体はのちに常在寺の住職の手で道三塚へ移され、常在寺は斎藤家の菩提寺として親子3代を祀る。

主な関係人物

斎藤道三方

2名

斎藤道三

道三方の総大将

美濃の国主を退いて鷺山城に隠居していた。長良川で敗れて討たれた。

出典1·確実度:高


織田信長

道三方への援軍

道三の娘婿として援軍を出したが決着に間に合わず、殿軍を務めて尾張へ退いた。

出典5·確実度:中

斎藤氏

1名

斎藤義龍

斎藤軍総大将

家督を継いだ嫡男。大軍で道三を破り、美濃を掌握した。

出典3·確実度:高

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、5月28日は弘治2年4月20日にあたる。両軍の兵数は軍記由来で幅が大きいため本文には書かない。

参照した資料

  1. 岐阜市「[市]道三塚」
  2. 岐阜市「ナビ番号:315 常在寺」
  3. 岐阜県歴史資料館「斎藤義龍肖像」
  4. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  5. Wikipedia「長良川の戦い」
  6. 地理院地図 住所検索(岐阜県岐阜市梶川町9)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1556年の勢力図を見る
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