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防長経略と大内氏の滅亡

1557年5月1日 · 長門国勝山城・長福寺(現在の下関市長府)

厳島の勝利のあと、毛利元就が周防・長門へ攻め入り、山口を落として大内義長を長門へ追った。義長は長福寺で自刃し、大内氏は滅びた。

背景

厳島で陶晴賢を失った大内氏には、周防・長門を守る力が残っていなかった。元就は勝利の直後から周防へ渡り、須々万沼城などの拠点を落として山口へ迫った。

結末

義長は長福寺で自刃し、周防・長門は毛利氏の手に落ちた。大内氏は滅び、毛利氏の領国は安芸・備後から西へ大きく広がった。

防長経略と大内氏の滅亡 — 長門国勝山城・長福寺(現在の下関市長府)

戦況年表

1 1555年10月〜1557年2月

毛利軍が周防の拠点を落としていく

厳島の勝利の直後から、毛利軍は周防へ渡って大内方の城を攻めた。須々万沼城などの拠点が落ち、山口への道が開いた。

毛利元就

周防へ攻め入る

出典23·確実度:中

2 1557年3月

義長が山口を離れ長門へ移る

毛利軍が山口へ迫ると、大内義長は高嶺城のある山口を離れ、重臣の内藤隆世とともに長門の勝山城へ移った。

大内義長

山口を離れる

内藤隆世

義長に従う

出典13·確実度:中

3 1557年3月〜4月

勝山城が包囲される

義長と内藤隆世は勝山城に籠り、山口県の解説によれば防御に優れた山城として毛利方を苦しめた。毛利方は海上も封じ、城を追い詰めた。

論点

内藤隆世が義長の助命を条件に城を開いたとする伝えがあるが、その後に義長が自刃を迫られた経緯は記述に差がある。

内藤隆世

勝山城に籠る

福原貞俊

長門で追討にあたる

出典13·確実度:中

4 1557年5月1日

大内義長が長福寺で自刃する

城が落ちる間際、義長は長福寺(現在の功山寺)へ移り、そこで自刃した。西国最大の名門であった大内氏は、ここで滅びた。

大内義長

長福寺で自刃する

出典14·確実度:高

歴史的な位置づけ

西国最大の名門であった大内氏が消え、その旧領と対外交易の窓口が毛利氏へ移った。関門海峡をはさむ豊前・筑前をめぐって、毛利氏と大友氏が向き合うことになる。

主な関係人物

毛利氏

3名

毛利元就

毛利軍総大将

本隊を山口の攻略に向け、長門での追討は家臣に委ねた。

出典2·確実度:中


毛利隆元

毛利本家の当主

父とともに周防・長門の攻略にあたった。

出典2·確実度:中


福原貞俊

長門方面の指揮

長門で大内義長の追討にあたり、長福寺を囲んだと伝わる。

出典2·確実度:中

大内氏

2名

大内義長

大内氏最後の当主

陶晴賢に擁立された当主。山口を離れて勝山城に籠り、長福寺で自刃した。

出典1·確実度:高


内藤隆世

大内方の重臣

義長に従って勝山城に籠り、毛利方と戦った。

出典1·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、5月1日は弘治3年4月3日にあたる。長門の勝山城は「且山城」とも書かれるが、城郭マスタの表記に合わせて勝山城とする。長福寺は現在の功山寺(下関市長府)にあたる。

参照した資料

  1. 山口県「さらば!! 西国一の大名・大内氏「最後の当主」大内義長」
  2. Wikipedia「防長経略」
  3. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  4. 地理院地図 住所検索(山口県下関市長府川端1-2-3)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1557年の勢力図を見る
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