INTERACTIVE BATTLE
1557年5月1日 · 長門国勝山城・長福寺(現在の下関市長府)
厳島の勝利のあと、毛利元就が周防・長門へ攻め入り、山口を落として大内義長を長門へ追った。義長は長福寺で自刃し、大内氏は滅びた。
厳島で陶晴賢を失った大内氏には、周防・長門を守る力が残っていなかった。元就は勝利の直後から周防へ渡り、須々万沼城などの拠点を落として山口へ迫った。
義長は長福寺で自刃し、周防・長門は毛利氏の手に落ちた。大内氏は滅び、毛利氏の領国は安芸・備後から西へ大きく広がった。

毛利軍が周防の拠点を落としていく
義長が山口を離れ長門へ移る
勝山城が包囲される
義長と内藤隆世は勝山城に籠り、山口県の解説によれば防御に優れた山城として毛利方を苦しめた。毛利方は海上も封じ、城を追い詰めた。
論点
内藤隆世が義長の助命を条件に城を開いたとする伝えがあるが、その後に義長が自刃を迫られた経緯は記述に差がある。
勝山城に籠る
長門で追討にあたる
出典13·確実度:中
大内義長が長福寺で自刃する
西国最大の名門であった大内氏が消え、その旧領と対外交易の窓口が毛利氏へ移った。関門海峡をはさむ豊前・筑前をめぐって、毛利氏と大友氏が向き合うことになる。
データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、5月1日は弘治3年4月3日にあたる。長門の勝山城は「且山城」とも書かれるが、城郭マスタの表記に合わせて勝山城とする。長福寺は現在の功山寺(下関市長府)にあたる。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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