狩野宗秀「織田信長像」
織田政権 当主
1534年〜1582年
尾張の織田弾正忠家に生まれ、家督争いと尾張国内の抗争を制して1559年までに尾張のほぼ全域を掌握した。桶狭間で今川義元を破り、斎藤氏を滅ぼして美濃を獲得すると、1568年に足利義昭を奉じて上洛した。のちに義昭を京都から追放し、近畿・北陸・中国・四国方面へ軍団を展開する一方、楽市楽座や道路・宿駅整備、城下町支配を進めた。安土城を拠点に統一事業を進めたが、1582年の本能寺の変で明智光秀に襲撃されて死去した。
出典 岩倉市「山内一豊公と岩倉の歴史」/岐阜市「信長公450プロジェクト」/滋賀県「安土城考古博物館」/京都市「本能寺跡」
39件
1534年
織田信長が誕生
誕生織田信秀の子として、後に天下統一を推し進める織田信長が尾張国勝幡城で生まれた。
1556年
1558年
浮野の戦い
清洲織田方総大将織田信長が岩倉城の織田氏を浮野で破った。翌年の岩倉城落城により、尾張は信長の手に統一される。
1559年
1560年
1562年
清須同盟成立
関係人物松平元康と織田信長は清須城で会見して同盟を結び、元康は三河平定、信長は美濃攻略へ注力できる体制を整えた。
1563年
織田信長が小牧山城へ移る
関係人物織田信長は美濃攻略の拠点として小牧山城を築き、清須城から居城を移すとともに山麓へ計画的な城下町を整備した。
1567年
織田信長が稲葉山城を攻略
参戦・関係織田信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃を掌握し、城下を岐阜と改称して居城を移した。
1568年
織田信長が観音寺城を攻略
参戦・関係足利義昭を奉じて上洛する織田信長は近江の観音寺城を攻め、六角義賢らを退けて京都への進路を確保した。
1569年
足利義昭の二条御所を築造
関係人物織田信長は前年に将軍となった足利義昭のため、旧武衛陣跡を拡張して城郭様式の二条御所を築いた。
1570年
1571年
1573年
1574年
1575年
8月
越前一向一揆の鎮圧
総大将朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。
明智光秀が丹波攻略を開始
参戦・関係織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略に着手した。光秀は黒井城を包囲したが、波多野秀治の離反による挟撃を受けて撤退した。
1576年
織田信長が安土へ移る
関係人物織田信長は琵琶湖東岸の安土山に新城の築造を進め、岐阜から本拠を移した。
1577年
1578年
1579年
安土城天主竣工
関係人物織田信長の本拠・安土城で天主が竣工し、政治・軍事・文化の新たな中心を象徴する城郭が姿を現した。
織田信雄の第一次伊賀侵攻が敗退
参戦・関係織田信長の次男・信雄は父の許可を得ないまま伊賀へ侵攻したが、伊賀衆の反撃を受けて敗退した。
1580年
石山合戦終結
参戦・関係本願寺法主顕如は勅命による講和を受け入れて石山本願寺を退去し、織田信長と本願寺の約十年に及ぶ戦いが終結した。
1581年
1582年
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