INTERACTIVE BATTLE

稲生の戦い

1556年9月27日 · 尾張国稲生原(現在の名古屋市西区名塚町周辺)

織田信長と、弟の織田信行を擁立した柴田勝家・林秀貞らが争った、織田弾正忠家の家督をめぐる戦い。信長は名塚に砦を築いて迎え撃ち、稲生原で勝った。

背景

信長は1555年に清洲城を奪って本拠を移したが、織田弾正忠家の家督は一枚岩ではなかった。末森城にいた弟の信行を、家老の林秀貞と柴田勝家が擁立し、離反が表面化した。

結末

兵数で劣る信長方が勝ち、信行・林秀貞・柴田勝家は母のとりなしで赦免された。信行は翌1557年に信長に殺され、争いは終わった。

稲生の戦い — 尾張国稲生原(現在の名古屋市西区名塚町周辺)

戦況年表

1 1556年9月下旬

信長が名塚に砦を築く

信行方の動きを受けて、信長は名塚白山社の境内に砦を築かせた。清洲と末森のあいだにあたる庄内川沿いの地である。

織田信長

名塚に砦を築かせる

出典13·確実度:中

2 1556年9月27日

稲生原で両軍が衝突する

柴田勝家と林通具が率いる信行方の軍が砦へ攻めかかり、庄内川に近い稲生原で信長方と衝突した。兵数では信行方が勝っていた。

柴田勝家

信行方の主力を率いる

林秀貞

信行方として兵を出す

出典123·確実度:中

3 1556年9月27日

信長方が押し返して勝つ

信長方は押し返し、林通具が討たれて信行方は崩れた。戦死者は稲生原に取り残され、里人が塚を造って葬ったと名古屋市は記す。

論点

信長が自ら大声を発して敵勢を崩したという叙述は『信長公記』系の描写で、逸話として扱う。

織田信長

自ら前へ出て戦う

出典13·確実度:中

4 戦後

信行が末森城へ退き、赦免される

敗れた信行は末森城へ退いた。信長は城へ攻め寄せたが、母のとりなしで信行・林秀貞・柴田勝家は赦免された。信行は翌年に殺される。

織田信行

末森城へ退く

出典24·確実度:中

歴史的な位置づけ

織田弾正忠家の中で信長の立場を定めた戦いであり、尾張統一へ進む出発点になった。以後、信長の相手は岩倉織田氏など家の外へ移る。

主な関係人物

織田氏

2名

織田信長

織田方総大将

清洲城から出て名塚砦に拠り、稲生原で信行方を破った。

出典1·確実度:高


佐久間盛重

名塚砦の守将

信長の命で名塚砦を築き、これを守ったと伝わる。

出典2·確実度:中

織田信行方

3名

織田信行

信行方の当主

末森城を拠点に擁立された信長の弟。敗れて赦免されたが、翌年に殺された。

出典1·確実度:高


柴田勝家

信行方の主力

信行を擁立して兵を率いた。のちに信長の重臣となる。

出典1·確実度:高


林秀貞

織田家の家老

勝家とともに信行を擁立した。弟の林通具はこの戦いで討たれたと伝わる。

出典2·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、9月27日は弘治2年8月24日にあたる。両軍の兵数は軍記由来で幅があるため本文には書かない。名塚砦の範囲は特定されていないため、地図の点は名塚白山社(名古屋市西区名塚町)を代表位置として置く。

参照した資料

  1. 名古屋市「庄内学区(西区)の紹介」
  2. Wikipedia「稲生の戦い」
  3. 地理院地図 住所検索(愛知県名古屋市西区名塚町)
  4. 城郭マスタ(shiro.geojson)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1556年の勢力図を見る
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