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戦国期の勢力を支えた鉱山・港・楽市の一覧です。誰が押さえていたか、誰が何を認めたかが分かる拠点を、出典とあわせて載せています。
商人による自由都市を形成し、堺・博多・大湊と並ぶ港湾都市として商業と海運で栄えた。長島一向一揆の勢力圏を経て織田氏・豊臣氏の支配下へ移り、1601年以後は本多忠勝が城下と港を整備した。
対明貿易と南蛮貿易の拠点として繁栄し、会合衆を中心とする自治都市と巨大な商業資本を形成した。三好氏や織田信長がその財力と交通網を重視し、信長の支配後は豊臣・徳川政権に組み込まれた。
日本海と京都を結ぶ中継港として年貢米・鉄・昆布などを扱い、戦国期には堺と並び称された。若狭武田氏から朝倉氏・丹羽氏・浅野氏・木下氏・京極氏へ支配者が相次いで交代した。
1571年に大村純忠がポルトガル貿易の門戸として開港し、六町を造成した。1580年には長崎と茂木がイエズス会へ寄進され、1587年に豊臣秀吉が直轄化して海外貿易港として掌握した。
三津七湊の一つで、越後府中と信濃方面を後背地とする商業港として栄えた。上杉謙信が財政基盤として保護し、上杉氏移封後は堀氏・松平氏の城下移転政策を受けながら外港機能を担った。
畿内と北陸を結ぶ日本海側の要港で、戦国期は朝倉氏の敦賀支配を支えた。1570年の織田信長による越前侵攻後に支配者が交代し、蜂屋頼隆を経て大谷吉継が港湾機能と城下町を整備した。
明・朝鮮との交易で富が集積し、大内氏・大友氏・龍造寺氏・島津氏らの争奪によってたびたび戦火を受けた。1587年以後は豊臣秀吉が太閤町割で復興し、黒田氏の支配下でも商業港として機能した。
大輪田泊を前身とし、足利義満のもとで日明貿易の拠点として整備された。応仁・文明の乱で焼亡して国際港の役割は堺へ移り、戦国末期に池田恒興が兵庫城を築いて港町を掌握、豊臣秀吉の時代に再整備された。
松浦隆信が1542年に王直を保護して交易港の基礎を整え、1550年にはポルトガル船が入港して南蛮貿易が始まった。松浦氏は倭寇勢力や海外商人を取り込み、九州北西部の国際交易を主導した。
三津七湊に数えられ、九頭竜川流域と日本海を結ぶ物資輸送港として繁栄した。朝倉氏滅亡後は湊の問丸森田氏が織田信長・柴田勝家に協力し、船の入港統制や海上偵察を担った。
伊勢湾口と宮川水系を結ぶ海運・造船拠点で、伊勢神宮の物資輸送を支えた。北畠氏領から織田氏の伊勢支配下へ移り、戦国末期には角屋家などの海商が活動して江戸初期の朱印船貿易へ進出した。
中世後期に中国・琉球・東南アジアへ通じる対外貿易港として繁栄し、島津氏の海外交易と南九州支配を支えた。豊臣秀吉の九州平定後も島津領に残り、統制下の交易港として利用された。
織田信長は天正5年(1577)6月、安土城下の山下町中に13箇条の掟書を出し、座の特権を廃止して城下を楽市と定め、中山道を通る商人の安土宿泊も命じた。近世城下町法の先駆けとされる。
織田信長は永禄10年(1567)10月、美濃加納の楽市場に宛てて特権を保証する制札を出し、翌年には営業税にあたる「さかり銭」も免除した。現存最古の楽市令の史料とされる。
一向一揆の拠点であった近江金森は元亀3年(1572)7月に織田信長方に攻略され、同年9月、信長が朱印状で楽市楽座を命じた。以後、宿駅と市場を兼ねる町として復興した。
豊臣秀次は天正14年(1586)6月、八幡山城下に13箇条の掟書を出し、諸座・諸役・諸公事を免除する楽市を定めた。安土山下町掟書を踏襲し、商船の八幡湊入港も義務付けた。
今川氏真は永禄9年(1566)4月、富士浅間社の大宮司富士信忠に朱印状を出し、月6度開かれていた大宮の市を楽市とした。市の混乱を鎮め、諸役停止で商人往来を保護した。
島山城とも呼ぶ。1597年末から翌年にかけて加藤清正が明・朝鮮の大軍に囲まれ籠城した
毛利輝元らが築いた渡海の玄関口。日本と半島を結ぶ補給の要で、撤退まで維持された
小西行長が在番した。講和交渉の舞台にもなった
小西行長が築いた最も西の倭城。1598年に明・朝鮮軍の包囲を受けた
加藤清正が1593年に築いた。倭城のなかでも遺構の残りがよい
島津義弘が在番し、1598年10月の泗川の戦いで明・朝鮮軍を退けた
水軍の拠点。1592年の安骨浦海戦の地でもある
巨済島の城。閑山島の朝鮮水軍と向き合う位置にある
釜山湾の入口を押さえる島の城
黒田長政が築いたとされる。釜山と西生浦を結ぶ線上にある
泗川と熊川のあいだをつなぐ
宗義智が在番した。露梁海戦の舞台に近い