
毛利元就が厳島で陶晴賢を破り、中国地方での勢力を大きく伸ばした。この勝利は大内氏の衰退を決定づけ、毛利氏の台頭を促した。
8月
武田晴信と長尾景虎が犀川をはさんで長く対陣し、今川義元の仲介で和睦した。決戦には至らなかった。
この合戦を詳しく見る →出典 長野市「川中島古戦場史跡公園」/ながの観光net「川中島の戦い 史跡ガイド」
10月
毛利元就が厳島へ渡海して陶晴賢の本陣を突き、これを破った。大内氏の実権は崩れ、毛利氏が中国地方で台頭する。
この合戦を詳しく見る →出典 宮島観光協会「厳島合戦」/広島県「戦国大名とひろしま~毛利元就~」/廿日市市「宮島物知り図鑑:宮島ゆかりの人々」
厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利元就は、周防・長門の大内氏領へ本格的な侵攻を開始した。攻略は1557年まで続き、大内氏滅亡と毛利氏の防長掌握へつながった。
出典 山口県「さらば!! 西国一の大名・大内氏『最後の当主』大内義長」
梅千代王丸が北条氏康の加冠役のもとで葛西城で元服し、将軍足利義輝から「義」の字を与えられた。
出典 葛飾区「葛飾区史 第2章 葛飾の成り立ち」
商人ルイス・デ・アルメイダが府内に育児院を建設。大友義鎮の支援のもとで、貧困により捨てられた子どもを引き取った。
出典 大分市「大友宗麟とその時代」
朝倉宗滴が加賀一向一揆との戦いに総大将として出陣し、その陣中で発病して79歳で没した。朝倉氏は長年の宿老を失う。
出典 福井県「福井の戦国 歴史秘話<第9号>」