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柴田勝家 — 柴田勝家像作者不詳「柴田勝家像」
柴田勝家の家紋

織田家の重臣・北陸方面

柴田勝家

生年不詳〜1583年

織田信長の重臣で、北陸方面の軍事と地域再編を担った。1575年9月の越前一向一揆平定後に信長から越前北庄を与えられ、日本海側の交通と北陸各地への軍事行動を結ぶ拠点とした。加賀・能登・越中への出兵は勝家一人のものではなく、前田利家・佐々成政・不破光治ら諸将、城・港・国衆との協働で行われた。1582年に信長が死ぬと、北陸にいた勝家は畿内の政局へ直ちに介入しにくく、清須会議後の秀吉との対立と1583年の賤ヶ岳・北庄城の結末は、この北陸支配の位置から切り離せない。「鬼柴田」という異名や苛烈な人物像は、後世の軍記・人物評に強く依存する。

出典 福井市立郷土歴史博物館「柴田勝家―北庄に掛けた夢とプライド」/滋賀県「賤ヶ岳合戦と城砦群」/国立国会図書館レファレンス協同データベース「柴田勝家書状」


関連する出来事

11件

1556年

9月

稲生の戦い

信行方の主力
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織田信長が、弟の信行を擁立した柴田勝家・林秀貞らを稲生原で破り、織田弾正忠家中での立場を固めた。

1570年

7月30日

姉川の戦い

織田方の将
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金ヶ崎で浅井長政に背かれた織田信長が、徳川家康とともに近江へ攻め込み、浅井・朝倉軍と姉川で戦った合戦。織田・徳川方が勝ったが、浅井氏を滅ぼすまでには至らなかった。

1575年

8月

越前一向一揆の鎮圧

杉津口攻撃・鎮圧後は越前8郡を領有
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朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。

9月

柴田勝家が越前北庄を与えられる

越前国主
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越前一向一揆の平定後、織田信長は柴田勝家に越前八郡の支配と北国征討を任せた。勝家は北庄城と城下町の建設を進めた。

1576年

9月11日

柴田勝家が北庄に楽市令を発する

越前国主
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柴田勝家は北庄に楽市令を出し、城下町の商業振興と越前支配の安定化を進めた。

1580年

1月

尾山御坊の陥落

北陸方面軍総大将
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信長と石山本願寺の講和後、柴田勝家配下の佐久間盛政が加賀一向一揆の本拠・尾山御坊を攻略した。約100年続いた加賀一向一揆の中枢が失われ、加賀国は事実上織田方の支配下に入った。

1582年

4月3日

柴田勝家らが魚津城を包囲

織田方総大将
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柴田勝家・前田利家・佐々成政ら織田方の北陸軍が、上杉方の重要拠点・魚津城を包囲した。攻城戦は約八十日に及んだ。

6月22日

魚津城落城

参戦・関係
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柴田勝家・前田利家・佐々成政らの織田方連合軍が上杉方の魚津城を落とした。本能寺の変の報が届くと織田方は撤退した。

7月

清須城で織田家の後継と領地再配分が協議され、信長の嫡孫・三法師が後継者となった。織田信雄と信孝による家督継承は退けられ、羽柴秀吉の影響力が強まった。

1583年

6月11日

賤ヶ岳の戦い

参戦・関係
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羽柴秀吉軍と柴田勝家軍が近江国伊香郡の賤ヶ岳周辺で戦い、柴田軍が敗れた。

6月14日

北庄城落城

参戦・関係
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賤ヶ岳から退いた柴田勝家は北庄城で羽柴軍の攻撃を受け、お市の方とともに自害した。

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