INTERACTIVE BATTLE

第四次川中島の戦い

1561年10月18日 · 川中島古戦場(八幡原)

千曲川と犀川にはさまれた川中島一帯で、武田信玄と上杉政虎が正面から衝突した戦い。双方が大きな損害を出し、決着はつかなかった。

背景

関東遠征から戻った政虎は、北信濃の国衆の求めに応じて再び出兵した。武田方は海津城(現在の松代城)を前進拠点としていた。

結末

八幡原での激戦で、武田方は副将の武田信繁らを失い、上杉方も大きな損害を受けた。両軍とも戦場を離れ、勝敗は決まらなかった。

第四次川中島の戦い — 川中島古戦場(八幡原)

戦況年表

1 1561年秋

上杉軍が妻女山に布陣する

関東から戻った政虎は北信濃へ出兵し、川中島を見下ろす妻女山に布陣したと伝わる。

上杉政虎

妻女山に布陣する

出典34·確実度:中

2 1561年秋

武田軍が海津城から出る

武田軍は北信濃の前進拠点である海津城から出て、川中島へ兵を進めた。海津城は現在の松代城にあたる。

武田信玄

海津城から出陣する

出典35·確実度:中

3 1561年10月18日

八幡原で両軍が激突する

八幡原で両軍が正面から衝突した。長野市の解説は、この戦いを「信玄・謙信の一騎打ちなど、多くの伝説を残した激戦」と記す。

論点

啄木鳥戦法や信玄と謙信の一騎討ちは『甲陽軍鑑』など後世の軍学書に由来する。近年は遭遇戦とみる見解もあり、布陣と経過は確定しない。

上杉政虎

八幡原へ攻めかかる

武田信玄

八幡原で受け止める

出典12·確実度:論争あり

4 1561年10月18日

双方が損害を出し、決着がつかない

武田方は副将の武田信繁らを失い、上杉方も大きな損害を受けた。両軍とも戦場を離れ、勝敗は決まらなかった。八幡原には首塚が残る。

武田信繁

戦死したと伝わる

山本勘助

戦死したと伝わる

出典12·確実度:中

歴史的な位置づけ

川中島の五度の対陣のうち最も激しい戦いとして伝わり、多くの伝説を残した。ただし武田方の海津城と北信濃の支配は戦後も残り、上杉方の恒久的な領有にはつながらなかった。

主な関係人物

上杉氏

2名

上杉政虎

上杉軍総大将

関東遠征から戻った直後の出兵で、武田本陣に迫ったと伝わる。のちの上杉謙信。

出典1·確実度:中


村上義清

北信濃の国衆

武田方に本領を追われ、上杉方の北信濃出兵を促した。

出典3·確実度:中

武田氏

3名

武田信玄

武田軍総大将

海津城を軸に北信濃の支配を維持し、八幡原で上杉軍を受け止めた。

出典1·確実度:中


武田信繁

武田軍の副将

信玄の弟。この戦いで戦死したと伝わる。

出典3·確実度:中


山本勘助

武田方の将

この戦いで戦死したと伝わるが、事績には後世の脚色が多い。

出典3·確実度:論争あり

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典は旧暦を用いており、10月18日は永禄4年9月10日にあたる。啄木鳥戦法・車懸り・信玄と謙信の一騎討ちは『甲陽軍鑑』など後世の軍学書に由来するため、本文では局面として扱わない。死傷者数は史料ごとに大きく異なるため書かない。

参照した資料

  1. 長野市「川中島古戦場史跡公園」
  2. ながの観光net「川中島の戦い 史跡ガイド」
  3. Wikipedia「川中島の戦い」
  4. 地理院地図 住所検索(長野県長野市松代町岩野)
  5. 城郭マスタ(shiro.geojson)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1561年の勢力図を見る
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