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織田家 三男・美濃

織田信孝

生年不詳〜1583年

織田信長の三男で、清須会議の後に美濃・岐阜城と三法師の補佐を任された。しかし三法師を安土へ移すことに反対して岐阜にとどめ、その扱いをめぐって羽柴秀吉と対立した。1583年に柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、勝家が越前で敗死すると岐阜城を開き、のちに自害した。幼い家督継承者を誰が保有し養育するかは、正統性の象徴を誰が掌握するかという政治問題だった。

出典 岐阜市「岐阜城の歴代城主:織田信孝・織田秀信」/織田秀信(三法師)の継承と岐阜/江南市「織田信雄禁制」/岐阜市「史跡岐阜城跡整備基本計画」/岐阜市「史跡岐阜城跡保存活用計画」/岐阜県歴史資料館「織田秀信禁制 写」/江南市「織田秀信禁制」/文教大学教育学部・中村修也「清須会議の意味」/コトバンク「鏡嶋湊」

家系図

資料で確認できた関係だけを示す。一族の全員を網羅したものではない。

関連する出来事

5件

1582年

6月

織田信孝が四国出陣を中止し山崎の戦いへ向かう

織田軍
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織田信孝は四国攻めのため大坂方面に集結していたが、本能寺の変で出陣を中止した。その後、羽柴秀吉軍に加わって山崎の戦いで明智光秀と戦った。

7月

清須城で織田家の後継と領地再配分が協議され、信長の嫡孫・三法師が後継者となった。織田信雄と信孝による家督継承は退けられ、羽柴秀吉の影響力が強まった。

7月

織田信孝が三法師の後見として岐阜城主となる

三法師後見
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清須会議後、織田信孝は三法師の後見人として岐阜城主となった。信孝は三法師を岐阜城に置き、織田家中での立場を固めようとした。

7月2日

山崎の戦い

織田家の名分
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本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。

1583年

6月11日

賤ヶ岳の戦い

勝家に呼応
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織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。

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