
織田家 次男・伊勢/尾張
織田信長の次男で、北畠家を継いで伊勢を基盤とした。清須会議の後は尾張を領し、秀吉が三法師を岐阜から安土へ移した後はその後見にあたったとされる。1584年には羽柴秀吉と争い、小牧・長久手の戦いの一方の当事者となった。信長の子である信雄・信孝と、嫡男信忠の子である三法師という複数の継承原理が並んだことが、本能寺後の政治を動かした。
出典 岐阜市「岐阜城の歴代城主:織田信孝・織田秀信」/織田秀信(三法師)の継承と岐阜/江南市「織田信雄禁制」/岐阜市「史跡岐阜城跡整備基本計画」/岐阜市「史跡岐阜城跡保存活用計画」/岐阜県歴史資料館「織田秀信禁制 写」/江南市「織田秀信禁制」/文教大学教育学部・中村修也「清須会議の意味」/コトバンク「鏡嶋湊」
9件
1579年
織田信雄の第一次伊賀侵攻が敗退
侵攻軍総大将織田信長の次男・信雄は父の許可を得ないまま伊賀へ侵攻したが、伊賀衆の反撃を受けて敗退した。
1581年
1582年
10月
徳川家康と後北条氏が和議
関係人物旧武田領をめぐる徳川・後北条両軍の対陣は、織田信雄・信孝兄弟の勧めもあって和議に至った。家康は甲斐と南信濃を確保し、三河・遠江・駿河を合わせた五国の大名へ成長した。
1583年
6月11日
賤ヶ岳の戦い
秀吉方に付いた織田氏織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
1584年
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