INTERACTIVE BATTLE

三方ヶ原の戦い

1573年1月25日 · 遠江国三方ヶ原・犀ヶ崖周辺

西上の途にあった武田信玄が遠江へ攻め入り、浜松城を素通りして北へ向かった。誘い出された徳川家康は三方ヶ原の台地で追撃を受け、生涯でも指折りの大敗を喫した。

背景

信玄は織田信長との対決を見据えて西へ動き出し、まず遠江・三河の徳川領へ入った。家康は浜松城に拠ったが、兵力の差は大きく、織田からの援軍も限られていた。

結末

徳川軍は総崩れとなり、家康はわずかな供とともに浜松城へ逃げ帰った。夜には犀ヶ崖で武田方への夜襲がかけられたと伝わる。

三方ヶ原の戦い — 遠江国三方ヶ原・犀ヶ崖周辺

戦況年表

1 1572年11月〜12月

武田信玄が遠江へ攻め入る

信玄は甲府を発ち、遠江の徳川領へ入った。一言坂で徳川勢を退け、二俣城へ迫る。

論点

旧暦10月にあたるが、この月の西暦への換算は確定できていない。

武田信玄

遠江へ侵攻

本多忠勝

一言坂で殿軍を務める

出典12·確実度:中

2 1573年1月22日

二俣城が落ちる

水の手を断たれた二俣城は二か月の籠城の末に開城した。遠江北部の要が武田方の手に落ちる。

馬場信春

二俣城攻めに加わる

出典12·確実度:中

3 1573年1月25日

武田軍が浜松城を素通りする

二俣城を出た武田軍は、浜松城を攻めずに西へ進んだ。城に籠るはずの家康は、この動きを見て城を出る。

論点

城を出た判断が誘いに乗ったものか、領国を通過されることを避けたものかで見方が分かれる。

徳川家康

浜松城を出て追う

出典12·確実度:論争あり

4 1573年1月25日 夕

三方ヶ原で徳川軍が崩れる

台地の上で待ち構えていた武田軍が、追ってきた徳川軍に襲いかかった。魚鱗に構えた武田勢の前に徳川軍は総崩れとなる。

山県昌景

武田軍の一手を率いる

徳川家康

三方ヶ原で大敗

平手汎秀

三方ヶ原で討死

出典13·確実度:高

5 1573年1月25日 夜

犀ヶ崖で夜襲がかけられる

敗走した徳川方は、夜になって犀ヶ崖付近に休む武田勢へ夜襲をかけたと伝わる。崖に落ちた人馬が多かったという。

論点

布橋の奇計をめぐる話は伝承の色が濃い。

酒井忠次

犀ヶ崖の夜襲に加わる

出典13·確実度:伝承

6 1573年1月25日 夜

家康が浜松城へ逃げ帰る

家康はわずかな供とともに城へ戻り、城門を開いたままにしたと伝わる。武田軍は城を攻めず、西へ去った。

論点

空城の計として語られる逸話は、後世の受容による部分が大きい。

徳川家康

浜松城へ逃げ帰る

出典12·確実度:伝承

歴史的な位置づけ

家康が武田軍の強さを身をもって知った戦いとして語られる。信玄は翌年に病没し、西上作戦は途中で終わった。

主な関係人物

武田氏

3名

武田信玄

武田方総大将

西上の途上で遠江へ入り、三方ヶ原で徳川軍を破った。

出典1·確実度:高


山県昌景

武田方の将

武田軍の一手を率いた。

出典1·確実度:中


馬場信春

武田方の将

只来城を落とすなど遠江侵攻で働いた。

出典1·確実度:中

徳川氏

3名

徳川家康

徳川方総大将

浜松城を出て追撃したが大敗し、城へ逃げ帰った。

出典1·確実度:高


酒井忠次

徳川方の将

徳川軍の一手を率いた。

出典1·確実度:中


本多忠勝

徳川方の将

一言坂での殿軍が知られる。

出典1·確実度:中

織田氏

2名

佐久間信盛

織田方の援軍

信長が送った援軍を率いた。

出典1·確実度:中


平手汎秀

織田方の援軍

援軍として加わり、三方ヶ原で討死したと伝わる。

出典1·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。旧暦の元亀3年12月22日は西暦では年が改まって1573年1月25日にあたるため、和暦では元亀3年(1572年)の戦いとして知られるが、西暦表記に合わせて1573年として扱う。遠江侵攻の開始時期は旧暦10月にあたり、換算が確定できないため月までの表記にとどめた。

参照した資料

  1. Wikipedia「三方ヶ原の戦い」
  2. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  3. 浜松市「犀ヶ崖古戦場」(浜松城跡の西北約1キロメートルとの記述から導出)
  4. 磐田市観光協会「一言坂の戦跡(古戦場)」
  5. 地理院地図 住所検索(静岡県磐田市一言)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1573年の勢力図を見る
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