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明智光秀の家紋

織田家の重臣・丹波

明智光秀

生年不詳〜1582年

織田信長の重臣で、丹波の攻略と統治、京都・近江の政務を担った武将。1575年に丹波攻略を始めたが黒井城をめぐる反撃で撤退し、城と在地勢力を段階的に押さえる戦略へ切り替えて1579年までに平定した。亀山城を築き、福知山を拠点として旧来の土豪城を再編し、城下整備・地子免除・寺社保護に関わる文書と伝承を残している。この丹波支配は、光秀が独自の城・家臣・取次網を持つ有力将として行動する基盤になり、1582年6月の本能寺の変はその基盤を用いて京都へ軍を進めた事件である。変の動機には怨恨・四国政策・黒幕説など多くの見方があるが、決定的な同時代史料はない。

出典 福知山市「明智光秀が築いた城下町について」/福知山市「御霊神社 紙本墨書明智光秀関係文書」/福知山市「福知山城跡」


関連する出来事

10件

1575年

6月29日

長篠の戦い

織田方の将
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長篠城を囲んだ武田勝頼に対し、織田信長と徳川家康が設楽原で迎え撃った合戦。馬防柵と鉄砲を組み合わせた織田・徳川方の陣に武田軍は突き崩され、宿老級の武将を数多く失った。

8月

越前一向一揆の鎮圧

杉津口攻撃
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朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。

明智光秀が丹波攻略を開始

丹波攻略
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織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略に着手した。光秀は黒井城を包囲したが、波多野秀治の離反による挟撃を受けて撤退した。

1577年

明智光秀が丹波亀山城を築く

築城・統治
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明智光秀は山陰道の要衝に丹波亀山城を築き、難航する丹波攻略とその後の統治の拠点とした。

1579年

10月

明智光秀が丹波平定を完了

丹波攻略
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八上城を攻略した明智光秀は鬼ヶ城・黒井城も制圧して丹波平定を完了し、福知山城などの築城と城下町整備を進めた。

1582年

6月

織田信孝が四国出陣を中止し山崎の戦いへ向かう

参戦・関係
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織田信孝は四国攻めのため大坂方面に集結していたが、本能寺の変で出陣を中止した。その後、羽柴秀吉軍に加わって山崎の戦いで明智光秀と戦った。

6月21日

本能寺の変

明智軍
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明智光秀が京都・本能寺で織田信長を討つ。信長自刃。

6月25日

中国大返し

討伐対象
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毛利方との講和後、羽柴秀吉軍は備中から姫路城を経て畿内へ急行し、明智光秀との決戦へ向かった。

7月2日

山崎の戦い

明智軍
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羽柴秀吉が山崎周辺で明智光秀を破った。光秀は勝龍寺城へ退いたのち夜陰に脱出し、坂本城を目指す途中で落命した。

7月2日

羽柴秀長が山崎の戦いで兄を補佐

参戦・関係
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羽柴秀長は兄・秀吉の軍に加わり、明智光秀を破った山崎の戦いで秀吉の天下取りを支える転機を迎えた。

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