INTERACTIVE BATTLE
1575年6月29日 · 三河国長篠・設楽原周辺
長篠城を囲んだ武田勝頼に対し、織田信長と徳川家康が設楽原で迎え撃った合戦。馬防柵と鉄砲を組み合わせた織田・徳川方の陣に武田軍は突き崩され、宿老級の武将を数多く失った。
信玄の死後、家督を継いだ勝頼は三河へ進んで長篠城を囲んだ。城将の奥平貞昌はわずかな兵で持ちこたえ、援軍を求める使者を岡崎へ走らせる。
武田軍は山県昌景・馬場信春・真田信綱ら多くの将を失って敗走した。武田氏はこの損失から立ち直れず、七年後に滅びる。

武田勝頼が長篠城を囲む
勝頼は一万五千の兵で長篠城に迫った。城を守る奥平貞昌の手勢は五百ほどで、落城は時間の問題に見えた。
論点
旧暦4月中旬にあたるが、この月の西暦への換算は確定できていない。
長篠城を包囲
出典123·確実度:中
鳥居強右衛門が岡崎へ走る
城を抜け出した鳥居強右衛門は岡崎城まで駆け、援軍の出立を確かめて引き返した。城へ知らせを伝えた直後に捕らえられ、処刑されたと伝わる。
論点
最期の言葉をめぐる逸話は伝承の色が濃い。
出典123·確実度:伝承
織田・徳川軍が設楽原に着く
酒井忠次が鳶ヶ巣山砦を突く
設楽原で決戦が始まる
鉄砲の大量運用が語られる戦いだが、三段撃ちなどの語りは後世に整えられた部分が大きい。武田氏の衰退と織田政権の伸長を決定づけた一戦であることは動かない。
4名
4名
データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典側は旧暦の日付を用いており、本ページの6月29日は旧暦の天正3年5月21日にあたる。長篠城の包囲開始は旧暦4月中旬で、換算が確定できないため月までの表記にとどめた。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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