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本能寺の変

1582年6月21日 · 山城国本能寺・二条新御所

明智光秀が主君の織田信長を京の本能寺に襲い、信長と嫡男の信忠を死に追いやった政変。天下統一を目前にした織田政権は一夜で崩れた。

背景

信長は中国方面の毛利攻めを支えるため上洛し、少数の供回りで本能寺に入っていた。嫡男の信忠も京に滞在していた。光秀は中国出陣を命じられて丹波亀山城にあり、その軍勢がそのまま京へ向かうことになる。

結末

信長と信忠がともに討たれ、織田家の中枢が失われた。光秀は近江を押さえて政権を握ろうとしたが、11日後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。

本能寺の変 — 山城国本能寺・二条新御所

戦況年表

1 6月20日 午後

光秀が丹波亀山城を発つ

中国方面への出陣を命じられた光秀は、一万三千の兵を率いて亀山城を出た。進路は西ではなく東、京へ向かう。

論点

謀反の意思をいつ固めたか、どの時点で家臣に告げたかは史料により異なる。

明智光秀

丹波亀山城を発つ

斎藤利三

明智軍の中核を率いる

出典13·確実度:論争あり

2 6月21日 未明

桂川を渡り京へ入る

老ノ坂を越えた軍勢は桂川を渡り、明け方前に京へ入った。信長の供回りは百人ほどで、備えらしい備えはない。

明智秀満

先手として京へ入る

出典12·確実度:中

3 6月21日 明け方

本能寺を包囲する

夜明けとともに明智勢が本能寺を囲んだ。森成利ら小姓衆が応戦したが、数の差はいかんともしがたい。

森成利

本能寺で応戦

出典12·確実度:高

4 6月21日 朝

織田信長が自刃する

寺に火がかかり、信長は奥へ入って自刃した。遺体は見つからなかったと伝わる。

論点

遺体が確認されなかったことから、最期の様子には後世の脚色が入り込んでいる。

織田信長

本能寺で自刃

出典12·確実度:中

5 6月21日 昼頃

織田信忠が二条新御所で果てる

妙覚寺にいた嫡男の信忠は、隣接する二条新御所へ移って防戦した。ここも支えきれず、信忠は自刃する。織田家の当主と後継が同じ日に失われた。

織田信忠

二条新御所で自刃

出典14·確実度:高

6 6月24日

光秀が安土城へ入る

光秀は近江へ進んで安土城を押さえ、織田家の蓄えと支配の中心を手にした。だが細川藤孝や筒井順慶は動かず、望んだ支持は集まらない。

明智光秀

安土城を押さえる

出典13·確実度:中

歴史的な位置づけ

天下統一の主体が織田家から失われ、後継をめぐる争いが始まった。光秀の動機については諸説が並び立ち、定説をみない。

主な関係人物

明智氏

3名

明智光秀

襲撃側の総大将

丹波亀山城から軍を返し、本能寺の信長を襲った。

出典1·確実度:高


斎藤利三

明智方の重臣

明智軍の中核を率いた。

出典1·確実度:中


明智秀満

明智方の将

先手を務めたと伝わる。

出典1·確実度:中

織田氏

3名

織田信長

襲われた織田家当主

少数の供回りで本能寺に滞在中に襲われ、自刃した。

出典1·確実度:高


織田信忠

織田家の後継

妙覚寺から二条新御所へ移って防戦し、自刃した。

出典1·確実度:高


森成利

信長の小姓

本能寺で信長に従い討たれたと伝わる。蘭丸の名で知られる。

出典1·確実度:伝承

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。出典側は旧暦の日付を用いており、本ページの6月21日は旧暦の天正10年6月2日にあたる。二条新御所の位置は碑の住所からの推定で、遺構は残らない。

参照した資料

  1. Wikipedia「本能寺の変」
  2. Wikipedia「本能寺」
  3. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  4. 二条殿址碑の所在地(京都市中京区両替町通御池上る東側 金吹町)から推定

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1582年の勢力図を見る
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