
7月、羽柴秀吉は関白に任じられ、公家社会の頂点に立つ地位を得た。同年、秀吉は弟の秀長らを大将に四国へ大軍を派遣し、四国をほぼ統一していた長宗我部元親を攻めて降伏させた。元親は土佐一国のみを安堵され、秀吉の天下統一事業はさらに前進した。
4月
6月
毛利勢が伊予へ渡海し、羽柴秀長・秀次勢が阿波へ上陸、宇喜多・黒田軍が讃岐へ上陸して、長宗我部方の城を攻めた。
この合戦を詳しく見る →出典 東京大学史料編纂所『大日本史料 第十一編之十七』/高知県「長宗我部元親と土佐の戦国時代」/香川県立図書館「香川県史年表」/徳島市立徳島城博物館「長宗我部元親書状」
毛利勢の第一陣を率いる小早川隆景が安芸から今張浦(現在の今治)へ上陸し、伊予方面の進攻を始めた。
この合戦を詳しく見る →出典 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』/松山市「室町時代から安土・桃山時代」
7月
四国へ侵攻した羽柴軍を受けて長宗我部元親が降伏し、土佐一国を安堵された。
この合戦を詳しく見る →出典 東京大学史料編纂所『大日本史料 第十一編之十七』/高知県「長宗我部元親と土佐の戦国時代」/香川県立図書館「香川県史年表」/徳島市立徳島城博物館「長宗我部元親書状」
伊予へ入った毛利勢が新居郡の高尾城と丸山を包囲し、金子元宅らの抗戦の末に落城した。新居浜ではこの戦いを天正の陣と呼ぶ。
この合戦を詳しく見る →出典 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』/新居浜市「滝の宮公園」
四国征伐後の国分で、仙石秀久が秀吉から讃岐を与えられた。ただし2万石は十河存保の支配とされた。
この合戦を詳しく見る →出典 香川県立図書館「香川県史年表(近世 1585年〈天正13〉〜)」
8月
湯築城に迫った小早川隆景が河野通直へ降伏を勧め、通直は城を開いて降伏を申し入れた。伊予の河野氏の支配は終わり、湯築城は隆景の居城となった。
この合戦を詳しく見る →出典 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』/松山市「室町時代から安土・桃山時代」
沼田領の引き渡しを拒んで徳川と断交した真田昌幸に対し、徳川軍が7,000人余で上田城を攻めた。昌幸は2,000人足らずでこれを撃退した。
出典 上田市「上田城の歴史」
9月
上杉方の多くの武将を動員した普請により、上田城が一応の完成をみた。真田昌幸は次男を上杉景勝への人質として送り、築城の援助を得ていた。
出典 上田市「上田城の歴史」
11月
伊達政宗軍と、佐竹義重を中心に蘆名氏などが加わった反伊達連合軍が人取橋周辺で戦った合戦。伊達軍は苦戦したが、連合軍は撤退した。
この合戦を詳しく見る →出典 福島県「中世」/本宮市地域資料/南奥州の佐竹・伊達抗争に関する調査ノート
11月13日
家康の重臣で岡崎城代だった石川数正が、妻子と信濃小笠原家の人質を連れて出奔し秀吉方についた。徳川の軍制に通じた重臣の離反は痛手となり、家康は軍制を改めたと伝わる。出奔の動機は確定していない。
出典 国立公文書館「徳川家康-将軍家蔵書からみるその生涯-」
12月10日
織田信長の子で秀吉の養子となった羽柴秀勝が、丹波亀山城主のまま18歳で病没した。同名の秀勝が複数いるため、石松丸秀勝・小吉秀勝とは区別される。
出典 長浜市曳山博物館 特別展「秀吉と三人の秀勝たち」
徳川家康が駿府城の築城を開始した。家康は天正18年(1590年)に関東へ移り、駿府城には中村一氏が入る。
出典 静岡市「駿府城公園城遺構案内板 解説」
豊臣秀吉が越中へ侵攻し、佐々成政が降伏した。富山の白鳥城が秀吉方の前線基地となり、降伏後の増山城には前田利家の重臣中川光重が入った。
出典 文化庁 文化遺産オンライン「増山城跡」/富山市「婦中安田城跡歴史の広場」