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豊臣秀吉の弟・大和郡山城主

豊臣秀長

生年不詳〜1591年

豊臣秀吉の異父弟で、1585年に和泉・紀伊・大和を領して大和郡山城へ入り、畿内統治の拠点を整えた。郡山城は筒井順慶の代に築かれた城だが、秀長の入城後に100万石級の居城として本格的に整備され、三重の堀と城下を備える城郭になった。これは秀吉の直轄ではなく、弟に広域の領国を任せて畿内を統治する配置だった。紀州・四国・九州の平定にも加わり、西国と畿内を結ぶ後方拠点と領国支配を結び付けた。1591年1月に郡山城で死去した。「天下一の補佐役」という評価は広く語られるが、各戦役での指揮・交渉の分担は戦役ごとに史料で確認する必要がある。

出典 大和郡山市「秀長と郡山のあゆみ」/大和郡山市「郡山城跡」/大和郡山市「郡山城」/大和郡山市「豊臣秀長画像」/大和郡山市「郡山城跡について」

家系図

豊臣秀吉

兄弟姉妹

豊臣秀長

本人

資料で確認できた関係だけを示す。一族の全員を網羅したものではない。破線は養子縁組か、続柄だけが分かり親を特定していない関係を示す。

関連する出来事

7件

1577年

羽柴秀長が竹田城代となる

竹田城代
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羽柴秀吉の但馬攻めに従った弟・秀長が竹田城の城代となり、兄弟による中国・山陰攻略の一翼を担った。

1580年

羽柴秀長が出石・有子山城に入る

但馬統治
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但馬平定が進むなか、羽柴秀長は出石の有子山城に入り、但馬統治の拠点を置いた。竹田城は配下の桑山重晴に預けられた。

1582年

7月2日

羽柴秀長が山崎の戦いで兄を補佐

秀吉軍
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羽柴秀長は兄・秀吉の軍に加わり、明智光秀を破った山崎の戦いで秀吉の天下取りを支える転機を迎えた。

1583年

6月11日

賤ヶ岳の戦い

秀吉方の将
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織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。

1585年

6月

四国征伐

阿波方面軍総大将
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羽柴秀吉が長宗我部元親の四国支配に対して三方面から征討軍を送り、元親を降伏させた戦役。元親は土佐一国へ退き、四国は豊臣政権の国分に組み込まれた。

9月3日

豊臣秀長が郡山城へ入城

当事者
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豊臣秀長が秀吉とともに郡山城へ入り、大和・紀伊・和泉を統治する拠点として城と城下町を整備した。

1587年

3月

九州平定

先発軍の指揮
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大友氏の要請と島津氏への停戦命令を背景に、豊臣秀吉が大軍を九州へ進め、島津義久を降伏させた戦役。

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