
7月、羽柴秀吉は関白に任じられ、公家社会の頂点に立つ地位を得た。同年、秀吉は弟の秀長らを大将に四国へ大軍を派遣し、四国をほぼ統一していた長宗我部元親を攻めて降伏させた。元親は土佐一国のみを安堵され、秀吉の天下統一事業はさらに前進した。
6月
毛利勢が伊予へ渡海し、羽柴秀長・秀次勢が阿波へ上陸、宇喜多・黒田軍が讃岐へ上陸して、長宗我部方の城を攻めた。
この合戦を詳しく見る →出典 東京大学史料編纂所『大日本史料 第十一編之十七』/高知県「長宗我部元親と土佐の戦国時代」/香川県立図書館「香川県史年表」/徳島市立徳島城博物館「長宗我部元親書状」
7月
四国へ侵攻した羽柴軍を受けて長宗我部元親が降伏し、土佐一国を安堵された。
この合戦を詳しく見る →出典 東京大学史料編纂所『大日本史料 第十一編之十七』/高知県「長宗我部元親と土佐の戦国時代」/香川県立図書館「香川県史年表」/徳島市立徳島城博物館「長宗我部元親書状」
11月
伊達政宗軍と、佐竹義重を中心に蘆名氏などが加わった反伊達連合軍が人取橋周辺で戦った合戦。伊達軍は苦戦したが、連合軍は撤退した。
この合戦を詳しく見る →出典 福島県「中世」/本宮市地域資料/南奥州の佐竹・伊達抗争に関する調査ノート
11月13日
家康の重臣で岡崎城代だった石川数正が、妻子と信濃小笠原家の人質を連れて出奔し秀吉方についた。徳川の軍制に通じた重臣の離反は痛手となり、家康は軍制を改めたと伝わる。出奔の動機は確定していない。
出典 国立公文書館「徳川家康-将軍家蔵書からみるその生涯-」
12月10日
織田信長の子で秀吉の養子となった羽柴秀勝が、丹波亀山城主のまま18歳で病没した。同名の秀勝が複数いるため、石松丸秀勝・小吉秀勝とは区別される。
出典 長浜市曳山博物館 特別展「秀吉と三人の秀勝たち」