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国別データ

山城国


年表

  1. 1549年 〜1559年

    三好長慶足利義輝松永久秀・細川晴元ほか

    三好氏三好長慶優勢のもと幕府・細川氏残党・国人衆が並存
  2. 1558年

    7月北白川の戦い

    京の奪還を目指した足利義輝が北白川で三好長慶方に敗れた。同年11月に和睦が成り、義輝は5年ぶりに京へ戻った。

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  3. 1559年

    2月織田信長が初めて上洛

    尾張で勢力を固めつつあった織田信長が初めて上洛し、将軍足利義輝に謁見した。信長は京都に加えて奈良・堺も見物した。

    織田信長が初めて上洛が行われた1559年の勢力図
  4. 4月長尾景虎が再上洛

    長尾景虎が二度目の上洛を行い、将軍足利義輝に謁見した。正親町天皇から盃を賜り、信濃・関東での軍事行動について幕府の支持を得た。

    長尾景虎が再上洛が行われた1559年の勢力図
  5. ガスパル・ヴィレラが京都に入る

    イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラが日本人修道士ロレンソらと京都に入り、継続的な布教活動を始めた。翌年には将軍足利義輝の庇護を受けた。

    ガスパル・ヴィレラが京都に入るが行われた1559年の勢力図
  6. 1560年 〜1564年

    足利義輝

    三好氏三好長慶の影響下
  7. 1560年

    12月京都政局の安定化模索

    将軍足利義輝が畿内有力大名や寺社勢力との関係改善を模索し、京都の政局安定を狙う。

    京都政局の安定化模索が行われた1560年の勢力図
  8. 1565年 〜1567年

    三好三人衆

    三好氏永禄の変(1565年5月)で三好義継・三好三人衆・松永久通らが将軍足利義輝を殺した。京は三好三人衆が押さえたが、1566年からは松永久秀との内訌が続いた
  9. 1565年

    5月19日永禄の変で足利義輝死去

    三好三人衆らの軍勢が京都の将軍御所を急襲し、室町幕府第十三代将軍・足利義輝は抗戦の末に死去した。

    永禄の変で足利義輝死去が行われた1565年の勢力図
  10. 1568年 〜1572年

    足利義昭

    織田氏足利義昭を奉じて上洛した
  11. 1569年

    足利義昭の二条御所を築造

    織田信長は前年に将軍となった足利義昭のため、旧武衛陣跡を拡張して城郭様式の二条御所を築いた。

    足利義昭の二条御所を築造が行われた1569年の勢力図
  12. 1571年

    2月足利義昭の反信長工作

    将軍足利義昭は諸大名・寺社勢力に働きかけ、信長を抑えるための政治的連携を模索。包囲網形成の動きが水面下で進む。

    足利義昭の反信長工作が行われた1571年の勢力図
  13. 1572年

    1月反信長勢力の連携継続

    足利義昭、浅井長政、朝倉義景、本願寺勢力らは引き続き信長への対抗姿勢を維持し、畿内周辺では包囲網の政治的・軍事的緊張が続いた。

    反信長勢力の連携継続が行われた1572年の勢力図
  14. 足利義昭の外交工作

    将軍足利義昭は信長に対抗するため、武田・朝倉・浅井・本願寺など諸勢力への働きかけを続け、反信長連携の維持を図った。

    足利義昭の外交工作が行われた1572年の勢力図
  15. 1573年 〜1580年

    村井貞勝

    織田氏将軍義昭の追放(1573年7月)で室町幕府は終わり、京は所司代の村井貞勝が治めた
  16. 1573年

    7月槇島城の戦い

    将軍足利義昭がなおも諸大名に反信長挙兵を呼びかける中、織田信長は京都近郊の槇島城を攻撃。義昭は敗れて降伏し、京都から追放された。

    槇島城の戦いが行われた1573年の勢力図
  17. 7月室町幕府の実質的滅亡

    足利義昭追放により、足利将軍家による京都支配体制は崩壊。一般にこの年をもって室町幕府滅亡とされる。

    室町幕府の実質的滅亡が行われた1573年の勢力図
  18. 1581年

    村井貞勝

    織田氏京は所司代の村井貞勝が治めた
  19. 2月京都御馬揃え

    織田信長が京都で大規模観兵式を挙行し、諸大名や外国使節に権威を誇示。畿内における織田政権の威信を国内外に示した。

    京都御馬揃えが行われた1581年の勢力図
  20. 1582年

    羽柴秀吉

    羽柴氏本能寺の変・山崎合戦を経て羽柴秀吉へ移行
  21. 6月21日織田信忠が二条御所で自害

    本能寺の変を知った織田信忠は妙覚寺から二条御所へ移って明智軍に抗戦したが、包囲を破れず自害した。信長と嫡男の同日死去により織田家の後継問題が生じた。

    織田信忠が二条御所で自害が行われた1582年の勢力図
  22. 6月21日本能寺の変

    明智光秀が京都・本能寺で織田信長を討つ。信長自刃。

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  23. 7月2日羽柴秀長が山崎の戦いで兄を補佐

    羽柴秀長は兄・秀吉の軍に加わり、明智光秀を破った山崎の戦いで秀吉の天下取りを支える転機を迎えた。

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  24. 7月2日山崎の戦い

    羽柴秀吉が山崎周辺で明智光秀を破った。光秀は勝龍寺城へ退いたのち夜陰に脱出し、坂本城を目指す途中で落命した。

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  25. 10月信長の葬儀が大徳寺で営まれる

    羽柴秀吉が織田信長の葬儀を京都の大徳寺で営み、信長の子で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝とともに主催した。清須会議後の主導権を示す場となった。

    信長の葬儀が大徳寺で営まれるが行われた1582年の勢力図
  26. 1583年

    羽柴秀吉

    羽柴氏京都支配
  27. 1584年

    羽柴秀吉

    羽柴氏京都支配
  28. 太閤検地開始

    豊臣秀吉が土地の測量と等級・年貢を把握する太閤検地を開始した。石田三成ら検地奉行が全国で実施を進めた。

    太閤検地開始が行われた1584年の勢力図
  29. 1585年

    羽柴秀吉

    羽柴氏京都支配
  30. 7月羽柴秀吉が関白に就任

    羽柴秀吉が関白に任じられ、朝廷の官職を通じて全国支配を進める地位を得た。

    羽柴秀吉が関白に就任が行われた1585年の勢力図
  31. 1586年

    豊臣秀吉

    豊臣氏京都支配
  32. 2月聚楽第の造営開始

    豊臣秀吉が京都の内野に政庁兼邸宅となる聚楽第の造営を始めた。

    聚楽第の造営開始が行われた1586年の勢力図
  33. 豊臣秀吉が太政大臣に就任

    豊臣秀吉が太政大臣に任じられ、朝廷の最高官職を得た。

    豊臣秀吉が太政大臣に就任が行われた1586年の勢力図
  34. 1587年

    豊臣秀吉

    豊臣氏京都支配
  35. 9月聚楽第が完成

    京都の聚楽第が完成し、豊臣秀吉が政務と諸大名統制の拠点とした。

    聚楽第が完成が行われた1587年の勢力図
  36. 10月1日北野大茶湯

    豊臣秀吉が北野天満宮境内で身分を問わず参加を認める大規模な茶会を催した。

    北野大茶湯が行われた1587年の勢力図
  37. 1588年

    豊臣秀吉

    豊臣氏京都支配
  38. 4月後陽成天皇の聚楽第行幸

    後陽成天皇が聚楽第へ行幸し、豊臣秀吉は諸大名に天皇と自身への忠誠を誓わせた。

    後陽成天皇の聚楽第行幸が行われた1588年の勢力図
  39. 7月刀狩令

    豊臣秀吉が百姓から刀・脇差・槍・鉄砲などの武器を取り上げる刀狩令を発した。

    刀狩令が行われた1588年の勢力図
  40. 北条氏規が上洛して秀吉に従属表明

    北条氏規が聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、従属を表明した。北条氏の豊臣政権への組み込みが進んだ。

    北条氏規が上洛して秀吉に従属表明が行われた1588年の勢力図
  41. 1589年

    豊臣秀吉

    豊臣氏
  42. 11月24日秀吉が後北条氏へ宣戦布告

    豊臣秀吉が名胡桃城奪取を惣無事令違反とし、北条氏直へ宣戦布告状を発した。

    秀吉が後北条氏へ宣戦布告が行われた1589年の勢力図
  43. 1590年

    豊臣秀吉

    豊臣氏
  44. 1591年 〜1597年

    豊臣秀吉

    豊臣氏
  45. 1591年

    12月豊臣秀次が関白に就任

    豊臣秀吉が甥の秀次へ関白職を譲り、秀次は聚楽第で政務を担うことになった。

    豊臣秀次が関白に就任が行われた1591年の勢力図
  46. 御土居・寺町造成

    豊臣秀吉が京都を囲む御土居を築き、軍事防衛・治水・都市区画を兼ねた土木事業を進めた。併せて寺町造成と本願寺の現在地への移転を進めた。

    御土居・寺町造成が行われた1591年の勢力図
  47. 1592年

    8月伏見の隠居屋敷造営開始

    関白職を秀次へ譲った豊臣秀吉が伏見指月丘に隠居屋敷の造営を始め、後の伏見城へ発展した。

    伏見の隠居屋敷造営開始が行われた1592年の勢力図
  48. 1593年

    8月秀吉が伏見へ移る

    秀頼誕生後、豊臣秀吉が伏見の指月屋敷へ移り、政権の新たな拠点として本格的な城郭化を進めた。

    秀吉が伏見へ移るが行われた1593年の勢力図
  49. 1594年

    1月伏見城の大規模改修開始

    豊臣秀吉が指月の伏見城を本格的な城郭へ改修し、明使を迎える政治拠点として整備を進めた。

    伏見城の大規模改修開始が行われた1594年の勢力図
  50. 8月指月伏見城完成

    伏見の指月城が完成し、豊臣秀吉が入城した。伏見は政権と交通の新たな中心となった。

    指月伏見城完成が行われた1594年の勢力図
  51. 伏見港と太閤堤の整備

    伏見城造営に伴い伏見港が開かれ、宇治川沿いの太閤堤など水陸交通を結ぶ大規模な土木工事が進められた。

    伏見港と太閤堤の整備が行われた1594年の勢力図
  52. 1595年

    7月28日聚楽第破却命令

    豊臣秀次の失脚後、豊臣秀吉が秀次の居所だった聚楽第の破却を命じた。

    聚楽第破却命令が行われた1595年の勢力図
  53. 8月聚楽第破却

    聚楽第が徹底的に取り壊され、建物や部材の一部は伏見城などへ移された。

    聚楽第破却が行われた1595年の勢力図
  54. 8月豊臣秀次の妻子・縁者が三条河原で処刑

    豊臣秀次が高野山で切腹した後、その妻子・縁者が京都の三条河原で処刑された。のちに処刑地跡へ瑞泉寺が建てられ、秀次一族の菩提が弔われた。

    豊臣秀次の妻子・縁者が三条河原で処刑が行われた1595年の勢力図
  55. 1596年

    閏7月13日慶長伏見地震

    畿内を大地震が襲い、完成直後の指月伏見城が倒壊するなど京都・伏見一帯に甚大な被害が出た。

    慶長伏見地震が行われた1596年の勢力図
  56. 閏7月23日木幡山伏見城の再建開始

    指月城倒壊から約10日後、豊臣秀吉が木幡山で新たな伏見城の築城を始めた。

    木幡山伏見城の再建開始が行われた1596年の勢力図
  57. 1598年 〜1599年

    豊臣秀頼

    豊臣氏秀吉死去後に秀頼が豊臣家直轄領を継承
  58. 1598年

    3月15日醍醐の花見

    豊臣秀吉が醍醐寺で秀頼・北政所・淀殿らを伴う大規模な花見の宴を催した。

    醍醐の花見が行われた1598年の勢力図
  59. 3月18日釜山浦城援軍の輪番命令

    豊臣秀吉が朝鮮の釜山浦城への援軍を四国大名衆へ輪番で命じる朱印状を発した。

    釜山浦城援軍の輪番命令が行われた1598年の勢力図
  60. 5月3日四奉行の加藤嘉明加増連署状

    前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家の四奉行が、朝鮮での戦功を理由に加藤嘉明を10万石へ加増する旨の連署状を発した。

    四奉行の加藤嘉明加増連署状が行われた1598年の勢力図
  61. 8月18日豊臣秀吉死去

    豊臣秀吉が伏見城で死去し、幼い秀頼を支える五大老・五奉行体制の均衡が大きく揺らぎ始めた。

    豊臣秀吉死去が行われた1598年の勢力図
  62. 9月3日五大老五奉行の連署起請文

    豊臣秀吉死後、幼い秀頼を支える五大老と五奉行が合議の誓約を記した起請文を作成した。

    五大老五奉行の連署起請文が行われた1598年の勢力図
  63. 1599年

    徳川家康が伏見城へ入城

    豊臣秀吉の死後、五大老の徳川家康が伏見城へ入り、豊臣政権の政務を担う拠点とした。

    徳川家康が伏見城へ入城が行われた1599年の勢力図
  64. 1600年

    豊臣秀頼

    石田方関ヶ原で国を抑えた大名の属した陣営で塗る/関ヶ原合戦を経て徳川方が京都を掌握
  65. 7月伏見城の戦い始まる

    徳川家康の会津出陣後、西軍が鳥居元忠らの守る伏見城を包囲し、関ヶ原戦役の最初の本格的攻城戦が始まった。

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  66. 8月1日伏見城落城

    西軍の攻撃により伏見城が落城・焼失し、守将の鳥居元忠らが戦死した。

    伏見城落城が行われた1600年の勢力図
  67. 1601年 〜1602年

    徳川家康・板倉勝重

    徳川政権板倉勝重を初代京都所司代に任命
  68. 1601年

    二条城築城を諸大名に命令

    徳川家康が京都御所の守護と上洛時の宿所とする二条城の築城を西国諸大名に命じた。

    二条城築城を諸大名に命令が行われた1601年の勢力図
  69. 1602年

    5月二条城着工

    村越茂助を奉行として二条城の本格的な造営が始まり、翌年の将軍宣下に向けて主要部の整備が進んだ。

    二条城着工が行われた1602年の勢力図
  70. 6月伏見城再建

    関ヶ原戦役で焼失した伏見城が徳川家康の居城として再建され、畿内支配の拠点となった。

    伏見城再建が行われた1602年の勢力図
  71. 1603年 〜1616年

    徳川家康・板倉勝重

    徳川政権京都所司代を通じて京都を統治
  72. 1603年

    2月12日徳川家康が征夷大将軍に就任

    徳川家康が伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府が成立した。

    徳川家康が征夷大将軍に就任が行われた1603年の勢力図
  73. 3月二条城完成と家康入城

    二条城の主要部が完成し、将軍宣下のため上洛した徳川家康が初めて入城した。

    二条城完成と家康入城が行われた1603年の勢力図
  74. 出雲阿国のかぶき踊り

    出雲阿国が京都の北野社でかぶき踊りを演じ、のちの歌舞伎へつながる芸能が広まった。

    出雲阿国のかぶき踊りが行われた1603年の勢力図
  75. 1605年

    4月8日前田利常、元服・叙任・松平賜姓

    加賀藩主・前田利長の養嗣子・前田利常が、京都で家康・秀忠に謁見し、元服して従四位下侍従兼筑前守に叙任され、松平姓を賜った。

    前田利常、元服・叙任・松平賜姓が行われた1605年の勢力図
  76. 4月12日豊臣秀頼の右大臣転任

    朝廷において、秀頼は内大臣から右大臣へ転任した。この昇進は徳川秀忠の将軍宣下の4日前であった。

    豊臣秀頼の右大臣転任が行われた1605年の勢力図
  77. 4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に就任

    徳川家康は伏見城で将軍職を秀忠へ譲り、徳川家による将軍職世襲の方針を天下に示した。

    徳川秀忠が征夷大将軍に就任が行われた1605年の勢力図
  78. 1611年

    3月28日徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見

    徳川家康が十九歳の豊臣秀頼を二条城へ招き、両者が会見した。秀頼が家康へ礼をする形となり、徳川政権と豊臣家の政治的関係が示された。

    徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が行われた1611年の勢力図
  79. 1615年

    7月7日武家諸法度発布

    徳川秀忠が伏見城に諸大名を集め、幕府と大名の統制原則を定めた武家諸法度を発布した。

    武家諸法度発布が行われた1615年の勢力図