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田辺城の戦い

1600年8月〜10月 · 丹後国田辺城

細川幽斎が約500で田辺城に籠もり、約15,000といわれる西軍を52日間抱え込んだ。朝廷の勧めで開城した。

背景

丹後領主の細川忠興は徳川家康に従い会津征伐に参戦していた。留守の丹後が石田三成の指示で攻撃され、忠興の父・幽斎は他の城を焼き払って居城の田辺城に立て籠もった。守備は約500、攻め手は約15,000といわれる。

結末

朝廷は古今伝授の継承者である幽斎を惜しんで開城を勧め、52日間の籠城が解かれた。その3日後が関ヶ原である。細川家は忠興の働きに加え、幽斎が15,000の敵勢を関ヶ原へ参加させなかった点も評価され、丹後12万石から豊前・豊後39万石へ加増国替えとなった。

田辺城の戦い — 丹後国田辺城

戦況年表

1 1600年8月

西軍が丹後へ攻め入る

会津征伐に出た細川忠興の留守を突き、石田三成の指示で丹後が攻撃された。幽斎は他の城を焼き払い、居城の田辺城に立て籠もった。

出典1·確実度:高

2 1600年10月

朝廷の勧めで開城する

朝廷は古今伝授の継承者である幽斎を惜しみ、開城を勧めた。52日間の籠城はこれで解かれ、その3日後に関ヶ原の戦いが起きた。

出典1·確実度:高

歴史的な位置づけ

大津城の戦いとならび、関ヶ原の主戦場へ向かうはずだった西軍の兵力を引き離した籠城戦である。歌学の継承という、武力とは別の要素が戦いの終わり方を決めた例でもある。

主な関係人物

徳川方

1名

細川藤孝

田辺城の守将

忠興の父。号は幽斎。他の城を焼き払って田辺城に籠もり、約500で52日間持ちこたえた。古今伝授の継承者であったため、朝廷が開城を勧めた。

出典1·確実度:高

石田方

1名

石田三成

丹後攻撃を指示

会津征伐に出た細川忠興の留守を突いて丹後への攻撃を指示した。

出典1·確実度:中

データ上の注意

舞鶴市は旧暦7月21日から9月12日までの52日間とする。開戦日には旧暦7月19日とする説もあり、西暦の日は確定させず月までにとどめた。

参照した資料

  1. 舞鶴市「舞鶴ふるさと発見館(郷土資料館)だより 令和4年9月号」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1600年の勢力図を見る
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