INTERACTIVE BATTLE

関ヶ原の戦い

1600年10月21日 · 関ヶ原

美濃関ヶ原で東西両軍が激突。徳川家康率いる東軍が大勝。

背景

秀吉の死後、豊臣政権の主導権をめぐる対立は全国規模の戦争になった。石田三成は関ヶ原の1か月余り前に西美濃の要衝・大垣城へ入って西軍の本営とし、東軍の西上を迎え撃つ構えをとった。福束城の戦いから岐阜城攻防戦を経て、前日の杭瀬川の戦いまで、両軍の戦いは大垣城を軸に展開している。徳川家康は9月14日に岡山(大垣市赤坂)へ着陣した。

結末

小早川秀秋の寝返りで西軍は総崩れとなり、勝敗はわずか半日程度で決した。大谷吉継は自刃し、石田三成は伊吹山へ逃れたのち10月27日に捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊とともに11月6日に京都六条河原で処刑された。島津義弘は東軍の中央を突破して薩摩へ帰り、南宮山の毛利勢は動かないまま戦いを終えた。翌日、家康は竹中重門に戦死者の埋葬を命じ、東西2か所の首塚が造られた。

関ヶ原の戦い — 関ヶ原

戦況年表

1 10月20日

杭瀬川の戦いで西軍が勝つ

大垣城を出た島左近・蒲生備中ら約500が、一隊を伏せたうえで杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊を挑発した。出てきたところを偽りの退却で誘い込んで破り、西軍の士気を高めた。

論点

杭瀬川は川筋が変わっており、戦闘の行われた場所は定かでないと岐阜県の解説は断っている。

島左近

兵500を率いて杭瀬川を渡り、中村隊を破った。

出典356·確実度:高

2 10月20日 夜

西軍が大垣城を出て関ヶ原へ向かう

石田三成は関ヶ原合戦の1か月余り前に西美濃の要衝・大垣城へ入り、西軍の本営としていた。両軍の戦いは大垣城を軸に展開し、この夜、西軍は城を出て関ヶ原へ向かった。宇喜多秀家が殿を務め、夜半の行軍中に東軍先鋒の福島隊に追いつかれて小競り合いになったといわれる。

石田三成

大垣城を西軍の本営としていた。

宇喜多秀家

関ヶ原への進軍で殿を務めた。

出典127·確実度:中

3 10月21日 午前6時ごろ

家康が桃配山に布陣する

徳川家康は前日の9月14日に岡山(大垣市赤坂)へ着陣し、当日の午前6時ごろ、東山道を見下ろす桃配山へ布陣した。

徳川家康

午前6時ごろ桃配山に布陣した。

出典12·確実度:高

4 10月21日 未明

両軍が関ヶ原に布陣する

西軍は笹尾山に石田三成、松尾山に小早川秀秋を置く鶴翼の陣を敷いた。東軍は関ヶ原の盆地中央で、福島正則を先陣とする魚鱗の陣を組んだ。南宮山には毛利秀元・吉川広家らが布陣し、東軍の池田輝政・浅野幸長がこれに備えた。

論点

陣跡の位置は、明治期の郷土史家・神谷道一が布陣地を定めた基礎の上に立つ比定地であり、同時代史料が座標を示したものではない。

石田三成

笹尾山に布陣した。

島左近

笹尾山の麓に布陣した。

小西行長

北天満山に布陣した。

宇喜多秀家

南天満山に約17,000を率いて布陣した。

島津義弘

甥の豊久らと約1,500を率いて布陣した。

大谷吉継

松尾山を正面に望む山中に布陣した。

小早川秀秋

標高293mの松尾山に布陣した。

毛利秀元

毛利輝元の名代として南宮山に布陣した。

吉川広家

南宮山の東寄りに布陣した。

安国寺恵瓊

南宮山に布陣した。

長束正家

南宮山に陣を構えた。

長宗我部盛親

南宮山に布陣した。

福島正則

盆地中央に東軍の先陣として布陣した。

松平忠吉

現在のJR関ヶ原駅付近に布陣した。

井伊直政

松平忠吉とともに布陣した。

黒田長政

竹中重門と岡山へ布陣した。

竹中重門

黒田長政と岡山へ布陣した。

細川忠興

岡山の西側に布陣した。

本多忠勝

東軍の後方に布陣した。

池田輝政

垂井に布陣し南宮山に備えた。

浅野幸長

垂井一里塚の近くに布陣した。

出典12·確実度:中

5 10月21日 朝

井伊隊の抜け駆けで戦端が開く

東軍の先鋒は福島正則だったが、徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた井伊直政が、松平忠吉とともに福島隊の脇を通り抜けて宇喜多隊の前へ出て発砲した。これを機に合戦が始まった。

井伊直政

松平忠吉とともに抜け駆けし、宇喜多隊へ発砲した。

松平忠吉

井伊直政とともに抜け駆けした。

福島正則

抜け駆けされたのち宇喜多隊へ攻めかかった。

宇喜多秀家

南天満山で東軍の攻撃を受けた。

出典12489·確実度:高

6 10月21日 朝

両軍が烽火で開戦を伝える

小西行長は北天満山で烽火を上げて西軍へ開戦を知らせた。東軍でも、岡山に布陣した黒田長政・竹中重門が攻撃の合図の烽火を上げた。

小西行長

北天満山で烽火を上げた。

黒田長政

岡山で攻撃の合図の烽火を上げた。

竹中重門

黒田長政とともに岡山にあった。

出典12·確実度:中

7 10月21日 午前

島左近が笹尾山の麓で負傷する

笹尾山の麓に布陣した島左近は東軍の猛攻を抑えたが、黒田隊の射撃によって負傷し、戦線を離脱した。石田隊は次第に押し込まれていった。

島左近

黒田隊の射撃で負傷し離脱した。

黒田長政

岡山から石田隊へ射撃を加えた。

細川忠興

黒田・竹中隊とともに石田隊を攻めた。

出典12·確実度:中

8 10月21日 午前

島津隊が動かない

島津義弘は約1,500を率いて陣を構えたまま、午前中は防御に徹した。石田三成からの援軍要請も拒んでいる。

島津義弘

防御に徹し、援軍要請を拒んだ。

石田三成

島津隊へ援軍を求めた。

出典12·確実度:高

9 10月21日 午前

南宮山の毛利勢が動かない

毛利秀元は輝元の名代として南宮山に布陣していたが、家康と通じていた吉川広家に前を塞がれる形となり、動けなかった。長束正家・長宗我部盛親も参戦できないまま終わった。

毛利秀元

吉川広家らの内通により動けなかった。

吉川広家

家康と通じ、毛利勢の前に留まった。

安国寺恵瓊

南宮山で傍観する形になった。

長束正家

参戦できないまま近江水口へ退いた。

長宗我部盛親

動かないまま終わった。

出典12·確実度:高

10 10月21日 午前11時ごろ

家康が本陣を陣場野へ進める

戦況が把握できないため、家康は笹尾山の石田三成陣の正面にあたる陣場野へ本陣を移した。ここから前線近くで東軍を鼓舞した。

論点

この陣地から松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したという話は、一説として伝えられているものである。

徳川家康

陣場野へ本陣を移した。

出典12·確実度:高

11 10月21日 正午ごろ

小早川秀秋が寝返る

松尾山から主戦場を一望していた小早川秀秋は、かねてから内応していた東軍への寝返りを決意した。藤堂高虎の調略を受けていた脇坂安治ら4隊もこれに続いた。

小早川秀秋

松尾山から東軍へ寝返った。

脇坂安治

小早川隊に続いて東軍へ転じた。

出典12·確実度:高

12 10月21日 正午ごろ

大谷隊が壊滅する

松尾山の正面に布陣していた大谷吉継は、小早川秀秋・脇坂安治らに三方から攻められた。病のため輿に乗って指揮していた吉継の隊は壊滅し、吉継は自刃した。

大谷吉継

三方から攻められ隊は壊滅し、自刃した。

平塚為広

吉継に代わって前線の指揮を託されていた。

藤堂高虎

大谷隊と刀を交えた。

京極高知

藤堂隊とともに大谷隊と戦った。

小早川秀秋

松尾山から大谷隊へ攻め下った。

出典12·確実度:高

13 10月21日 午後

決戦地で西軍が総崩れになる

小早川秀秋の寝返りで戦況は一変し、東軍が一気に優勢となった。石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊でこの一帯は埋め尽くされ、最大の激戦となった。天下分け目の勝敗は、わずか半日程度で決した。

石田三成

東軍諸隊に攻め込まれ、伊吹山方面へ逃れた。

福島正則

宇喜多隊を破って押し出した。

田中吉政

東軍諸将とともに石田隊を破った。

小西行長

敗走し、のちに自首した。

出典12489·確実度:高

14 10月21日 午後

島津隊が敵中を突破する

西軍が総崩れになると、島津義弘の隊は退路を求めて東軍の中央を突破した。烏頭坂では甥の島津豊久が殿を務めて奮戦し、義弘は薩摩へ帰り着いた。

島津義弘

東軍の中央を突破して薩摩へ帰還した。

島津豊久

烏頭坂で殿を務めた。

井伊直政

松平・本多隊とともに島津隊を追撃した。

本多忠勝

島津隊を追撃した。

出典12·確実度:高

15 10月22日以降

首実検と首塚の造営

戦いの翌日、家康は破壊された神社の修復と、戦場に残された戦死者の処理を竹中重門に命じた。重門は遺体を埋葬し、東西2か所に首塚を造営した。首実検は陣場野で行われた。

徳川家康

陣場野で首実検を行った。

竹中重門

戦死者を埋葬し、東西の首塚を造営した。

田中吉政

三成の探索を命じられ、伊吹山中で捕縛した。

出典12·確実度:高

歴史的な位置づけ

一日の合戦で天下が移ったと語られるが、実際には伏見・岐阜・大津・田辺・出羽・豊後など各地の戦いを含む広域の戦争であり、関ヶ原はその決着点にあたる。豊臣秀頼は大坂城に残り、徳川と豊臣の最終的な決着は1614〜15年の大坂の陣まで持ち越された。戦後の改易・加増転封で全国の領主配置が組み替えられ、1601年の勢力図は徳川政権66か国・豊臣氏3か国となった。

主な関係人物

徳川方

13名

徳川家康

東軍総大将

9月14日に岡山(大垣市赤坂)へ着陣し、15日午前6時ごろ桃配山に布陣した。午前11時ごろ、笹尾山の石田三成陣の正面へ本陣を進めた。

出典12·確実度:高


松平忠吉

東軍先手

現在のJR関ヶ原駅付近に布陣し、井伊直政とともに抜け駆けして宇喜多隊へ発砲した。

出典12·確実度:高


井伊直政

東軍先手・軍監

徳川家が先陣を切ることを重んじ、松平忠吉とともに抜け駆けして開戦の口火を切った。午後は島津隊を追撃した。

出典12·確実度:高


福島正則

東軍先鋒

関ヶ原の盆地中央に、魚鱗の陣の先陣として布陣した。井伊・松平隊に抜け駆けされたのち、宇喜多隊へ攻めかかった。

出典12·確実度:高


黒田長政

東軍・岡山布陣

竹中重門とともに約5,000を率いて岡山(標高164m)へ布陣し、開戦とともに攻撃の合図の烽火を上げた。石田隊への射撃で島左近を負傷させた。

出典12·確実度:高


竹中重門

東軍・岡山布陣

黒田長政とともに岡山へ布陣した。戦いの翌日、家康の命で戦死者を埋葬し、東西2か所の首塚を造営した。

出典12·確実度:高


細川忠興

東軍

黒田・竹中隊とともに石田隊を攻めた。

出典12·確実度:高


本多忠勝

東軍軍監

合戦当日の午後、松平・井伊隊とともに島津義弘を追撃した。

出典12·確実度:高


藤堂高虎

東軍

京極高知とともに大谷吉継の諸隊と戦った。脇坂安治らへ調略を通じていたと伝わる。

出典12·確実度:中


京極高知

東軍

藤堂高虎とともに大谷隊と戦った。

出典12·確実度:中


田中吉政

東軍

東軍諸将とともに石田隊を破った。戦後は三成の探索を命じられ、伊吹山中で捕縛した。

出典12·確実度:高


池田輝政

東軍

岐阜城攻めの後、垂井に布陣して南宮山の軍勢に備えた。

出典12·確実度:中


浅野幸長

東軍

岐阜城を攻略したのち、垂井一里塚の近くに布陣して南宮山の毛利勢に備えた。

出典12·確実度:中

石田方

16名

石田三成

西軍の中核

関ヶ原を一望でき北国街道も押さえられる笹尾山に布陣した。西軍が崩れると伊吹山方面へ逃れ、のちに田中吉政に捕らえられた。

出典12·確実度:高


島左近

石田隊の将

前日の杭瀬川の戦いで兵500を率いて勝ち、笹尾山の麓に布陣した。東軍の猛攻を抑えたが、黒田隊の射撃で負傷し戦線を離脱した。

出典12·確実度:中


宇喜多秀家

西軍副大将

南天満山に西軍最大の約17,000を率いて布陣した。関ヶ原への進軍では殿を務めた。

出典12·確実度:高


小西行長

西軍

北天満山に布陣し、合戦開始とともに烽火を上げて味方へ開戦を知らせた。敗走後に自首し、京都で三成とともに処刑された。

出典12·確実度:高


大谷吉継

西軍

松尾山を正面に望む山中に布陣した。病のため輿に乗って指揮したが、小早川秀秋や脇坂安治らに三方から攻められ、隊は壊滅した。

出典12·確実度:高


平塚為広

大谷隊の将

垂井城主。大谷吉継の配下として参戦し、吉継に代わって前線の指揮を託された。

出典12·確実度:中


島津義弘

西軍

甥の豊久らと約1,500を率いて布陣した。午前中は防御に徹し、石田三成からの援軍要請も拒んだ。西軍が総崩れすると東軍の中央を突破して薩摩へ帰還した。

出典12·確実度:高


島津豊久

西軍

義弘の甥。撤退では殿を務め、烏頭坂で東軍と戦った。

出典12·確実度:中


小早川秀秋

西軍から東軍へ転じる

標高293mの松尾山に布陣した。かねてから内応していた東軍への寝返りを決意し、西軍はこれを機に崩れた。

出典12·確実度:高


脇坂安治

西軍から東軍へ転じる

藤堂高虎の調略を受けており、小早川隊が寝返るとほかの3隊とともに東軍へ転じた。

出典12·確実度:中


毛利秀元

西軍・南宮山

毛利輝元の名代として南宮山に布陣したが、一族の吉川広家らの内通により動けず、合戦に参加できなかった。

出典12·確実度:高


吉川広家

西軍・南宮山

毛利軍の西軍参加に一族最年長として反対し続け、家康と密かに通じたうえで南宮山に布陣した。

出典12·確実度:高


安国寺恵瓊

西軍・南宮山

毛利輝元を西軍の総大将に担ぐことに関わった。南宮山に布陣したが動けず、戦後に三成・行長とともに六条河原で斬首された。

出典12·確実度:中


長束正家

西軍・南宮山

伊勢方面から美濃へ転戦し南宮山に陣を構えたが、参戦できないまま領地の近江水口へ退いた。

出典12·確実度:中


長宗我部盛親

西軍・南宮山

西軍主力の一角として南宮山に布陣したが、動かないまま終わった。

出典12·確実度:中


毛利輝元

西軍総大将

西軍の総大将に担がれたが、大坂城にとどまり関ヶ原の主戦場へは出陣しなかった。

出典12·確実度:高

データ上の注意

出典の日付は旧暦で、本戦は慶長5年9月15日にあたる。西暦は既に検証済みの1600年10月21日を基準とし、同じ旧暦9月内の日は日差をそのまま置き換えて換算した。陣跡の位置は明治期以降の比定地である。

参照した資料

  1. 岐阜関ケ原古戦場記念館「古戦場・史跡巡り」
  2. 岐阜県観光公式サイト「岐阜の旅ガイド」
  3. 大垣市「市指定史跡 関ケ原合戦岡山本陣跡」
  4. 岐阜県「岐阜関ケ原古戦場記念館」
  5. 岐阜県観光公式サイト「杭瀬川古戦場」
  6. 大垣・西美濃観光ポータル「関ケ原合戦 決戦前夜 大垣城」
  7. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  8. 関ケ原観光ガイド「開戦地」
  9. 関ケ原観光ガイド「決戦地」
  10. 国土地理院 住所検索

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1600年の勢力図を見る
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